【追悼・山田五郎さん】難しい教養を身近な楽しみに変えた、知的で格好いい大人
評論家、編集者、コラムニストとして活躍した山田五郎さんが、2026年7月14日に亡くなりました。67歳でした。
2024年10月に「原発不明がん」のステージ4であることを公表し、抗がん剤治療を受けながらも、テレビやラジオ、YouTubeなどで仕事を続けていました。訃報は7月22日、公式YouTubeチャンネルを通じて発表されました。
あまりにも早い別れです。
山田五郎さんといえば、独特の髪形と眼鏡、落ち着いた声、そして圧倒的な知識量を思い浮かべる人が多いでしょう。
しかし、山田さんの本当の魅力は、単に物知りであったことではありません。難しい話を難しいまま語らず、ユーモアを交えながら私たちの日常へと引き寄せてくれました。
山田五郎さんは、まさに「教養を楽しむこと」を教えてくれた人だったと思います。
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雑誌編集者として若者文化をつくった
山田五郎さんは1958年、東京都生まれ。上智大学文学部に進学し、在学中にはオーストリアのザルツブルク大学へ留学して、西洋美術史を学びました。
大学卒業後は講談社に入社します。
本来は美術関係の本を作りたいと考えていたそうですが、配属されたのは若者向け情報誌の編集部でした。その後、1980年代から1990年代の若者文化を代表する雑誌『Hot-Dog PRESS』の編集に携わり、編集長も務めています。
当時の『Hot-Dog PRESS』は、ファッションや恋愛、クルマ、時計、音楽、デートスポットなど、若者が知りたい情報を幅広く紹介していました。
今のようにインターネットで何でも調べられる時代ではありません。雑誌は、若者が新しい価値観や流行を知るための重要な案内役でした。
山田さんは、興味のなかった分野の仕事を任されても、徹底的に調べ、その面白さを見つけていったといいます。この編集者としての経験が、後年の幅広い知識につながったのでしょう。
美術だけではなく、時計、ファッション、街づくり、建築、音楽、鉱物、グルメまで語ることができた背景には、「知らないことを調べ、面白さを発見し、それを人に伝える」という編集者としての姿勢がありました。
「アド街」と「タモリ倶楽部」で親しまれた博識な人
2004年に講談社を退社して独立した後は、執筆や講演のほか、テレビやラジオでも幅広く活躍しました。
代表的な番組が、テレビ東京系の『出没!アド街ック天国』です。
その街の歴史や文化、名物、知られざる魅力を紹介する番組の中で、山田さんは博識でありながら、決して知識をひけらかすような話し方をしませんでした。
少し意外な視点から街を眺め、歴史や文化を織り交ぜながら、短い言葉で面白さを伝えてくれました。
『タモリ倶楽部』でも、山田さんの知識と個性は存分に発揮されました。
マニアックなテーマを真剣に掘り下げながら、笑いに変えていく。タモリさんをはじめとする出演者とのやり取りには、大人の知的な遊びがありました。
山田さんとタモリさんには、どこか共通するものがあったように思います。
二人とも、知識を権威にするのではなく、遊び道具にしていました。知らなくても困らないことを、あえて深く知る。その寄り道こそが、人生を豊かにするのだと教えてくれたのです。
YouTubeで再び花開いた「オトナの教養」
2021年、山田さんはYouTubeチャンネル『山田五郎 オトナの教養講座』を開設しました。
この番組では、西洋美術を中心に、有名な画家の生涯や作品の背景、当時の社会、宗教、人間関係などを分かりやすく解説しました。
美術の説明というと、作品名や画家の名前、技法を覚える堅苦しい授業になりがちです。
しかし、山田さんの解説は違いました。
画家の恋愛や嫉妬、貧困、家族との確執、性格上の問題などにも触れながら、名画の背後にいる「生身の人間」を描き出しました。
そのため、これまで美術に関心がなかった人でも、絵画を一つの物語として楽しむことができました。
若い聞き手から素朴な質問を投げかけられると、山田さんは決して馬鹿にせず、質問の意味を受け止めて丁寧に答えます。この対話形式も、番組の大きな魅力でした。
美術館へ行くことに敷居の高さを感じていた人が、「実物を見てみたい」と思うようになった。このチャンネルが果たした役割は、とても大きかったと思います。
その功績が評価され、2025年には第17回伊丹十三賞を受賞しました。受賞理由は、美術を対話的に掘り下げる番組の「斬新さ、おもしろさ」でした。
編集、テレビ、教養、ユーモア。多方面で活躍した伊丹十三さんの名を冠した賞は、山田五郎さんにふさわしいものでした。
がんを公表しても、伝えることをやめなかった
山田さんは2024年10月、原発不明がんであることを自ら公表しました。
原発不明がんとは、転移したがんが見つかっている一方で、最初に発生した場所を特定できない病気です。
山田さんは病気を必要以上に劇的に語らず、治療の状況についても自身の言葉で伝えました。その後も、体調と向き合いながら活動を続けています。
病院の駐車場に咲く桜を見て、マネージャーに「来年も一緒に桜を見ような」と話したことや、孫と会話できる日を目標に治療に臨んでいたことも、訃報とともに伝えられました。
そこにあったのは、大きな理想論ではなく、もう一度桜を見ること、家族と言葉を交わすこと、そして自分の知識を最後まで誰かに届けることでした。
山田さんが最後の講義として遺したテーマは、「メメント・モリ」だと発表されています。
「死を忘れるな」という意味を持つ言葉です。
死を恐れて目を背けるのではなく、いつか終わりが来るからこそ、今をどう生きるのかを考える。そのテーマを最後の講義に選んだことにも、山田さんらしい知性と覚悟を感じます。
山田五郎さんが私たちに遺したもの
山田五郎さんは、知識の量だけで人を圧倒する評論家ではありませんでした。
分からない人を置き去りにせず、「ここが面白いんですよ」と笑いながら、私たちを知識の世界へ招き入れてくれる人でした。
年齢を重ねても、新しい媒体に挑戦し、若い世代と自然に対話する。自分の専門外にも好奇心を持ち、面白いものを見つけ続ける。
その姿は、還暦を過ぎた私たちにも大切なことを教えてくれます。
人は何歳になっても学ぶことができる。そして教養とは、知識を誇るためではなく、世界を面白く見るためのものなのだと。
テレビで街を語っていた姿も、名画の裏側を楽しそうに説明していた姿も、もう新たに見ることはできません。
それでも、山田五郎さんが残した文章や映像を開けば、あの声で再び新しい世界を案内してもらうことができます。
一枚の絵を少し長く眺めてみること。
知らない街を歩き、その歴史を調べてみること。
興味のなかった分野にも、まずは一歩近づいてみること。
それが、山田五郎さんへの何よりの追悼になるのかもしれません。
長い間、知ることの楽しさを伝えてくださり、本当にありがとうございました。
山田五郎さんのご冥福を、心よりお祈りいたします。
