竹内まりやと山下達郎が“離婚”ではなく“卒婚”?

最近、東南アジア中心に見直されている日本のシティポップですが、その中心と言えるのが、竹内まりやさんと山下達郎さんのご夫婦です。そのご夫婦が離婚?卒婚?されたとの噂があるので調べてみました。

1.デビュー

「SEPTEMBER」「不思議なピーチパイ」など挙げたらきりがないほどの大ヒット曲で知られる竹内まりやさん。竹内まりやさんと言えば女性の気持ちを代弁してくれると女性からの支持も多いシンガーソングライターのお一人です。そんな竹内まりやさんは今何をしているのでしょうか。同じく日本を代表するシンガーソングライターの夫・山下達郎さんとは、おしどり夫婦として有名です。これまでの経歴や私生活を調べてみました。

竹内まりやさんは、1955年3月20日生まれ、島根県の出身です。世界で通じるようにという父の考えから「まりや」と名付けられました。デビューは1978年11月25日に、シングル「戻っておいで・私の時間」アルバム「BEGINNING」でした。

2.山下達郎さんとの出会い

竹内まりやさんと山下達郎さんは、同じレコード会社「スマイルカンパニー・ワーナーミュージック・ジャパン」に所属していました。竹内まりやさんのアルバムの収録に、先輩である山下達郎さんは、アレンジ、コーラスなどで参加したのがきっかけのようです。つまり、仕事を通じてお二人は知り合ったのです。当時はアイドル路線の歌手だった竹内まりやさんはバラエティ番組に多く出演されていました。あるテレビ番組で男性の口の中にトコロテンを押し出す役を担当することになったときに、「私の人生はこれでいいのか?」と思い悩んでしまったそうです。歌手であるにも関わらず、バラエティ番組でくだらないことをさせられている自分の境遇がみじめに感じられたそうです。そこで先輩である山下達郎さんに、相談したそうです。元々はお二人ともお互いの印象はそれほど良くなかったそうです。山下達郎さんは竹内まりやさんを「ぶすっとした女子大生のよう」と感じ、竹内まりやさんは山下達郎さんを「冷たい人」と考えていたそうです。しかし、対話を重ねる中で意気投合し、なんでも話し合える中になっていったとのことです。「音楽を音楽としてやりたい」その強い思いを叶えるべく親身になって山下達郎さんは竹内まりやさんの相談に乗ってくれたそうです。こうしてお二人は、知り合ってから7~8年ほどで交際へとなったそうです。交際に至ったきっかけは、竹内まりやさんがアン・ルイスさんへ「リンダ」を提供した際に山下達郎さんは徹夜で同曲のコーラスに参加して、竹内まりやさんは山下達郎さんのプロフェッショナルな姿勢に感銘を受けて、正式に交際したいと思うようになったとのことです。こうしてお二人は交際を始め、1982年にご結婚されます。竹内まりやさんが27歳、山下達郎さんが28歳のときです。六本木にある出雲大社東京分祀で挙式し、披露宴には、音楽仲間である世良公則さん、アン・ルイスさん、近藤真彦さんらが出席しました。

3.卒婚?

お二人は仕事でも家庭でも信頼できるパートナーとして活躍されますが、結婚38年目を迎えた2020年にメディアの取材で竹内まりやさんは山下達郎さんのことを「大親友」と表現されています。周りの人たちの中には「離婚して友人関係になったのか?」と驚いた人もいました。しかし、お二人は離婚しておらず2022年には結婚40周年を迎えています。実は2020年に山下達郎さんは周囲の人に「卒婚ってどう?」と聞いたことがあったそうです。ご存じのことと思いますが、「卒婚」とは2000年代になってから言われだした、新たな夫婦のあり方です。離婚届けは出さずに、夫婦のままでいながら、お互いに干渉せずに自由な生活を送ることを指します。山下夫妻には、1984年生まれの一人娘の山下えりさんがいますが、イラストレーターとして独立、活躍されています。子育てがひと段落し、夫婦ともに還暦を過ぎたこともあり、「お互いにもっと自由に生きよう」と考えたのではないでしょうか。卒婚して、夫婦で同居しても別居しても、また日によって居住形態を変更したりと、お二人の個々として生活を大切にするのでしょう。近年竹内まりやさんは積極的に単独ライブを開催し、仕事に熱中している様子です。1984年以降竹内まりやさんの楽曲は、山下達郎さんが全てプロデュースしています。1990年に発売された竹内まりやさんの「告白」もご夫婦での共作ですが、「元カレ」が登場します。元カレから懐かしい電話が掛かってくるものの、女性が「今の暮らしを壊さないで」と切り捨てるというストーリーです。女性の潔さが表れていますが、山下達郎さんはどんな気持ちだったのでしょうか、気になりますね。妻が元カレをテーマに曲を作ったわけですから。竹内まりやさんの実体験だったのでしょうか?

現在はメディア出演が減っているようですが、理由は何でしょうか。元来積極的にテレビなどに出演していませんでしたが、2022年には、ほとんど見かけることがなくなりました。調べてみると竹内まりやさんは2016年頃から島根県の実家の旅館経営に加わってお忙しいということが分かりました。竹内まりやさんのご実家は、島根県の世界遺産「出雲大社」のすぐ近くにある老舗旅館「竹野屋旅館」です。皇族などもお泊りになられる、非常に格式の高い旅館で知られています。出雲大社で挙式を行い、竹野屋旅館で披露宴を行うということも多かったそうです。竹内まりやさんは慶応義塾大学に在学中に歌手デビューしました。実家の竹野屋旅館は、実兄の竹内信夫さんでした。竹内まりやさんの父の代までは旅館経営は非常に好調だったそうですが、実兄の代になってから経営はかなり苦戦しているようです。時代の波かもしれませんが、実兄の竹内信夫さんの経営手腕にも問題があったのではないかとの声が周囲から聞こえてきています。そこで竹内まりやさんが「今まで自由にさせてもらっていたので、今度は自分が家業を手伝う」と経営に参画する決意をしたようです。兄への感謝の気持ちを持ちながら自分も頑張るという素晴らしい決意だと思います。

旅館経営をしながら、シンガーとして活躍されることは容易なことではないと思いますが、よき伴侶山下達郎さんのご理解や支援を受けながらシンガーとしての竹内まりやさんの今後の活躍を期待したいものです。

タモリは「引退」?

1 タモリ倶楽部終了

タモリさんが司会を務める、テレビ朝日の深夜の人気名物バラエティ番組「タモリ倶楽部」を2023年3月末で終了します。放送開始から40年の節目を迎え、「番組としての役割は十分に果たしたということで、総合的に判断し3月末を持って終了」すると発表がありました。「タモリさんはもちろん、すべての出演者・関係者の皆様、そしてなにより長きにわたり『タモリ倶楽部』を応援してくださった視聴者の皆様に心から感謝申し上げます」とし、「『タモリ倶楽部』が大切にしてきた独創性は、テレビ朝日の深夜バラエティの大きな財産として今後もしっかりと受け継いでまいりたいと思います。40年という長きにわたって番組をご視聴頂き、誠にありがとうございました。」と発表資料に記載されていました。

同番組は1982年10月に放送開始しています。女性がお尻を振るオープニングから、タモリが「毎度おなじみ流浪の番組、タモリ倶楽部でございます。」とあいさつするのが定番の流れです。毎回ロケや鉄道企画などがマニアックなテーマで展開され、深夜ならではの適当な緩さもウケて絶大な人気を誇っていました。ミニコーナー「空耳アワー」は名物として根強い支持を集め、芸能界にもファンが多かったと言います。今回の3月末終了を受けてネット上では惜しむ声が続出しました。「これは大ショック!」「嘘だろ‥俺の中で今年最大のショックになるかもしれん‥」「そうなんだ‥ショックだな」「空耳アワー大好きやったな」「遂に終わってしまうのか‥さよなら空耳‥」「何か寂しいな、、時代の変化はしょーがないけどツラいなー」「いきがいの1つだった」「唯一無二の番組だったなぁ」「マニアックでアングラでニッチを煮凝りにした良い番組だったのになぁ‥」「ただただ寂しい」という投稿が続出しました。一方で「レギュラー終了しても特番復活は出来るだろうから、空耳とか鉄道系でたまにやってほしいな」「タモリが一番タモリらしい番組!空耳アワースペシャルだけでも不定期でやってくれ!」と復活を期待する声や、「キチンと幕を引くのは偉いし、タモリの美学っぽいなと思うな」「40年も続いたんですね。本当にスゴイです。おつかれさまでした」とタモリさんらをねぎらう投稿も相次いでいます。

2 ミュージックステーションも?

一方で、テレビ朝日のタモリさんが出演するもう一つの看板番組である「ミュージックステーション」でも2022年に異変がありました。2022年5月27日放送の「ミュージックステーション」で、司会のタモリさんが「機能していない」と視聴者の間で話題になったのです。1987年から30年以上にわたって司会を務めているタモリさんですが、ネット上では、こちらも引退説が囁かれているようでした。この日の番組では、6月10日の正式発表に先駆けて「Billboard JAPAN」の上半期総合チャートを発表しました。企画の概要が説明されると、オープニングでタモリさんはいつものように「こんばんは、タモリです」と挨拶していました。しかし、その声には抑揚がなく、どことなく疲れている印象でした。シンガーソングライターのあいみょんさんが、この日の番組で披露する新曲「初恋が泣いている」の誕生秘話を語っても、「へぇ」といつものように漏らすだけでした。また、番組の中盤に差し込まれた「誕生日の思い出」について話すトークコーナーでは、アーティスト同士が話を振り合う一幕もあったのです。タモリさんから話を振られた「日向坂46」が誕生日の思い出について話し、区切りがついたタイミングで急に「Hey!Say!JUMP」の有岡大貴さんが「あいみょんさんはどうですか?」と話を振りました。これにあいみょんさんは「はい」と返答し、誕生日に自分の顔がプリントされたケーキを贈られたというエピソードを話しました。エピソードが終わると、思い出したかのように「あ、あと『Hey!Say!JUMP』の皆さんは?」と話を振っていたのです。どうもこの日はタモリさんが司会として機能していない『Mステ』に、視聴者からは、様々な声が寄せられていたようです。「今日のミュージックステーションのタモリさん元気ないな。ブラタモリが元気すぎるだけかもだけど」「タモリ倶楽部でもそうだけど、生放送だとよりタモリさん歳取ったなぁって感じる」「タモリでは、現在の若者の音楽にはついていけないと思う」「なんか今日のMステ、カンペ読まされとる感がすごいんだけど気のせい?」「Mステも、タモさん頼みじゃなくて台本進行になったんだな‥」「アーティストがアーティストに話題振るように台本作られてんのか。大変だな。昔よりタモさん全然映ってないし」といった指摘が寄せられていました。タモリさんに対する苦言は、20時だった放送時間が2019年10月に21時枠へと変更されてから多くなったように思えます。タモリさんは今年8月で78歳を迎えます。年齢を考えると、遅い時間の生放送の進行を務めるのはもう難しいのかもしれません。

3 温厚なタモリさんが激怒した!

さて、タモリさんは温厚な人柄と、豊富な知識で知られています。そんなタモリさんが激怒したタレントがいるのだと言われています。なんとタモリさんが森脇健児さんに激怒して芸能界を干したという噂があるのです。怒ったところを見たことがないと言われるほど温厚なことで知られているタモリさんですが、過去タレントの森脇健児さんに激怒し、芸能界からも干してしまったとインターネット上で噂されています。ここからそんな二人に何があったのか調べてみました。

タモリさんは、2020年5月22日に放送された「タモリ倶楽部」内の「マッチングタモリ」というコーナーにお笑いコンビ「オズワルド」が出演した際、「人がマジ切れしている時に、どうするか?」というお題でのトーク中、「オズワルド」にたもりさんがマジ切れしたことはあるのかと、問いかけられました。すると、「マジ切れががどれぐらいのことをいうのか知らないけれど、森脇健児っているでしょ」と、かつてタレントの森脇健児さんに激怒したことを明かしています。ただ、映像はここでカットされ、画面には「※詳細は各自調べてください」と表示されたため、タモリさんが何を述べたのか詳細は不明です。ちなみに、某芸能ライターは、このことについて、次のように述べています。森脇健児さんは、かれこれ二度もタモリを怒らせたと、テレビのバラエティ番組で告白しています。一つは焼き肉店でのことで、もう一つはゴルフの打ちっぱなしでの出来事だったそうです。この時、森脇健児さんはタモリさんを怒らせたいきさつを話していますが、どちらも怒られて当然という感じの内容です。あの温厚なタモリさんを二度も怒らせるとは森脇健児さんは、ある意味で大したものです。森脇健児さんはタモリさんの他にも笑福亭鶴瓶師匠や三宅裕司さんに尊大な態度をとって怒らせたそうなので、よほど天狗になっていたのではないでしょうか。ちなみに「タモリ倶楽部」のタモリさんは、ネタとして言っているよりも今でも本気で怒っているようだったそうです。森脇健児さん本人も2014年バラエティ番組「しくじり先生 俺みたいになるな!!」で、タモリさんを激怒させたことがあると語っていたそうです。具体的には、一つ目は、高級焼き肉店で次々と肉を焼き続けたという出来事です。タモリさんと一緒に高級焼き肉店で食事をした際、タモリさんが頼んだ肉をタモリさんのペースを考えずに、まるで食べ放題の焼き肉店のように、次々と焼き続け、肉から火が出て燃えてしまったそうです。たまらずタモリさんが「自分のペースで食べさせろ」と声を荒げのだそうです。二つ目はゴルフの打ちっぱなしで私語をしたというものです。森脇健児さんがタモリさんに誘われて「8代目いいとも青年隊」の工藤兄弟とともにごるふの打ちっぱなしに行った際、森脇健児さんは先に打ちっぱなしを終えると、タモリさんがまだ打ち続けているにもかかわらず、工藤兄弟と話をしていたそうです。これにタモリさんが「俺のを見るのも勉強だ」と言ったそうです。

森脇健児さんは1980年代後半、関西で女子中高生を中心に絶大な人気を誇り、23歳で東京に進出を決意し、1990年代の全盛期には、タモリさんが司会を務める「笑っていいとも!」、他「夢はMORIMORI」など、レギュラー番組12本とCM7本を抱える超売れっ子になりましたが、そんな売れっ子の時の出来事だそうです。

その後1996年に森脇健児さんは「笑っていいとも!」を降板すると、2000年になるころにはテレビ出演は激減していきました。現在も関西を中心にタレント活動を続けられているそうですが、タモリさんに干されたのでしょうか。森脇健児さんは、2017年にお昼の番組「バイキング」に出演された際、タモリさんを激怒させたのは本当ですと発言されています。ただ、タモリさんが番組を降ろさせろとか言ったのではないと思うと述べられています。つまり、タモリさんを怒らせたから干されたのではなく、番組の意向だったとコメントされています。

4 タモリさんの引退は?

日本人にとって、タモリさんの番組はどれも長寿であり、あって当然の番組というような感覚を持っているのではないでしょうか?タモリさん自身も美学として必要とされている限り続けるというものであり、それが長寿になっているのでしょう。しかし年齢を重ねられ、体調も気になりますので、残りの番組も無理をなされないで、できるだけ長く続けていって欲しいものです。

柳葉敏郎の〝死亡説〟、テレビから干された?

さんをご存じですか?1980年代後半から、トレンディードラマの常連だった俳優です。現在は活動も少なく、どうしたのだろうと何かと話題になっているので、噂を調べてみました。

柳葉敏郎は、1961年1月3日生まれ、秋田県のご出身です。映画館の看板絵師をしていた父と、小学校の教員だった母の間に長男として生まれました。父が稼ぎを全く渡さなかったため、母は子供を連れて自身の実家に戻りました。一方別居して一人暮らしとなった父は敏郎さんが8歳の時に脳溢血のため38歳で急逝されています。その後母の再婚により継父の姓である柳葉姓となりました。

大学受験に失敗し浪人中の18歳の時に日本テレビのオーディション番組「スター誕生!」へ応募し、テレビ予選に出場しました。しかし、合格ラインに達せず、挑戦者全員が落選だったため、司会者萩本欽一さんから「バンザイ、無しよ!」の洗礼を受けました。その後、渋谷のディスコ仲間たちでNHK前の路上で寸劇をしていた「劇男零心会」に加わります。そして「劇男一世風靡」を結成し、さらに「劇男一世風靡」のメンバーから結成された「一世風靡セピア」のメンバーとして歌手デビューを果たしました。当時の若者の代表格的存在となります。

1988年以降は多くのトレンディードラマに出演し、芸能界内で元祖トレンディ俳優と言われるようになります。その後、1997年から放送された「踊る大走査線」シリーズの室井慎次役は一番の当たり役となり、2005年に主演を務めた派生映画「容疑者 室井慎次」はヒット作となりました。

これまでに数多くの映画、ドラマで活躍されてきました。輝かしいキャリアの持ち主である柳葉敏郎さんなのですが、最近は、あまり見かけなくなっています。そのため、柳葉敏郎さんは干されてしまって、出身地である秋田県に住んでいるのではないかと噂されています。本当の理由は何でしょうか、本当に干されてしまったからなのでしょうか?探ってみると「死亡説」まで見つけました。

柳葉敏郎さんは出演作が減っていることは事実だったようですが、トラブルがあったのではないようです。つまり、年齢的なこともあり、単に仕事をセーブしてただけのようです。一方で秋田県に移住していたというのは、事実のようです。

柳葉敏郎さんは、2005年に秋田県に郷土愛が強いので移住したようです。こういった理由となるとプライベートなことも気になってきます。

探ってみると奥さんは美人で、12歳年下の一般女性で、裕子さんというようです。柳葉敏郎さんは画像を公開したことがあるようです。1994年にゴルフ場で出会い、1997年に結婚されています。裕子さんは元々、柳葉敏郎さんのファンだったようで、出会ったすぐに交際に発展して、ゴールインとなったようです。2000年には長女、さくらさんが、2008年には長男、一路さんが誕生されています。

秋田県と家が日本酒が有名ですが、柳葉敏郎さんは酒癖が悪いとの噂があるようです。酒に酔ってあるアイドルを俳優を殴って前歯を折ったが、現場にいた全員で「転倒事故」ということで口裏を合わせたとか、羽賀研二さんの車を破壊したとか、和田アキ子さんと一緒に飲みに行ったとき100万円の高級なお酒を勝手に頼みそれ以降和田アキ子さんは柳葉敏郎さんと飲みに行っていないとか、数多く出てくるようです。これらの噂は本当なのでしょうか?本当だからこそ、秋田県で家族と暮らしながら芸能活動をしていると言われています。

数々のドラマに出演してきた中で共演NGの俳優もいるそうです。2019年にフジテレビで放送された「梅沢富美男のズバッと聞きます!SP」に柳葉敏郎さんが出演し、30年間共演NGだった俳優と対面しました。

概要は、当時21歳だった女優Mは、1988年にフジテレビで放送された「君の瞳をタイホする!」で柳葉敏郎と共演したものの、キスシーンの撮影でトラブルになったそうです。初めてのキスシーンで「人前でキスができない」との理由で女優Mは拒否しました。撮影が中断し、結局最後まできすはできずに二人が重なり合うシーンをカメラのアングルを引いて広範囲を移すことで対応しました。それ以来二人の共演は無いそうです。そして、スタジオにその共演NGの三田寛子さんが登場しました。「私、ぎばさんが(キスシーン拒否の)それで怒って、共演NG女優にリストアップされていると思っていた」と告白しました。柳葉敏郎さんは「そんなわきゃない」と否定しました。三田寛子さんは「私、未熟すぎて、できませんってなって、撮影終了後、ぎばさんがスッと帰っちゃって、仲良くしゃべってくれなくなっちゃった。ほかの女優さんとキスシーンをした後は楽しそうだった」と当時を振り返りました。さらにこのドラマ出演後に夫で歌舞伎役者の中村芝翫さんと交際をスタートしたとい三田寛子さん、その後「主人が女優さんというのは(キスシーンも)構わないって言ってくれたんで、その後のドラマからキスシーンしたの」と告白しスタジオを笑わせていました。柳葉敏郎さんは「妹みたいな感覚で接していたので、つらい気持ちだろうなと思っていた」と述べ、その後、三田寛子さんと手を合わせ、「今後、二人でドラマお願いします」と共演作の出演をアピールしていました。

もう一人、共演NGと言われる俳優がいます。それは織田裕二さんです。ドラマシリーズや映画の大ヒットとは反比例するように冷え切ってしまった織田裕二さんと柳葉敏郎さんの関係ですが、いったい何があったのでしょう。

織田裕二さんは、以前から自分の出演するドラマや映画において、思ったことをいろいろと口に出すと、現場では有名です。時にはそれが「余計な口出し」ととらえられてしまうこともあるようです。織田裕二さんは自分の看板となるドラマや映画作品を思ってこそのストイックな性格からやっていることですが、それをよく思わなかったのが柳葉敏郎さんです。柳葉敏郎さんの演技に口出しされ、「現場に迷惑をかけるなんて役者として失格」と柳葉敏郎さんが発言したという噂も現場で聞かれたそうです。そこから織田裕二さんと柳葉敏郎さんの中には決定的な溝ができてしまったと言います。ただ、「踊る大走査線」のラストの映画撮影では、「最後なんだしお互い頑張ろう」と、一応和解したとも言われています。

柳葉敏郎さんの現在の様子と、過去いろいろと言われてきたことを調べてみました。柳葉敏郎さんは秋田県で家族を大切に生活しているようです。バラエティ番組やドラマで時折見かけますが、家族との時間を優先して仕事をセーブしているのでしょう。織田裕二さんとの確執については放送されているときから噂になっていたようです。とりあえずエンディングはありますが、ファンの中では続編の期待も多いのですが、現状では難しいのではないでしょうか。

 

芦田愛菜は芸能界から引退するの?父親の正体は?母親は?

芦田愛菜さんは、子役から活躍されて、さらに女優としての活躍が注目されています。そんな芦田愛菜さんは慶応期塾女子高校から慶応大学医学部に進学する噂が出ているようなのです。そこで今回調べてみました。

愛菜さんは3歳の時に母親の勧めで芸能界に入り、2009年に子役デビューをし、2010年にはドラマ「Mother」に出演、2011年にはドラマ「マルモのおきて」で注目を集めました。その「マルモのおきて」で共演した鈴木福さんとともに「マル・マル・モリ・モリ!」で歌手デビューも果たされました。2013年には映画「パシフィック・リム」でハリウッドデビューもされました。

学業は、2017年に都内の複数の難関私立中学に合格し、最終的に慶応義塾中等部に入学されました。その後慶應義塾女子高校に進学され、芸能活動と両立されています。高校での成績は学年でもトップクラスとも言われています。学内トップ5しか進学できない慶應義塾大学医学部に内部進学できると噂があります。愛菜さんも以前から病理医に興味があると発言されていることも噂になる理由の一つのようです。

慶応大学医学部の内部進学は、非常に厳しいとのことです。日本人女性初の宇宙飛行士となった向井千秋は、慶応義塾女子高校で医学部進学を目指していたと言われていますが、内部進学は極めて狭き門だったため断念して一般入試で現役合格していたとの話もあります。愛菜さんが内部進学可能な成績だということは本当にすごいことだと思われます。

しかし、経済学部などでは芸能活動との両立も可能ですが、医学部となると、専門知識を学ぶための授業集も多く、実習もありますので、今までのような芸能活動は不可能と言われています。そのため大学進学を機に芸能界を引退する可能性が噂されています。

ファンにしてみれば、愛菜さんの将来を応援したい気持ちと女優として活躍して欲しい気持ちとがあり複雑な心境でしょう。ネット上では、「頭のいい子だから引退して意志一筋の方が良い。勿体ない」との声も多くありました。

小学生の時から年間100冊以上の本を読んでいたとのことで、読書でいろいろな知識を吸収されてきたのでしょう。しから、高校の成績と読書からの知識とは異なるので、高校の成績が良いということは本当に勉強を頑張ったのでしょうね。はっきりとオール10だとの証拠は出てきませんでしたが、医学進学の噂が出るくらい成績がいいことは間違いないことでしょう。

そんな芦田愛菜さんのご両親とはどんな方なのでしょう。

芦田愛菜さんの父親は、三井住友銀行の支店長だそうです。住みたい街ランキングに名を連ねる都内の住宅街にある支店だそうです。40代後半の父親は、早稲田大学商学部を卒業後住友銀行(当時)に入行し、これまでに3支店で支店長を務めるエリート行員です。ちなみに三井住友銀行はメガバンクの中でも年収が高いと言われています。

母親は、愛菜さんのマネージャーとしてサポートしています。元は父親と同じく三井住友銀行の行員だったそうです。母親の学歴は不明ですが、かなり優秀な方だと推測できます。愛菜さんが7歳の時の2011年、スッキリで「お母さんは39歳」と答えていました。「お父さんは2歳年上」とも発言されています。

母親が友人に誘われたのがきっかけで、芦田愛菜さんは、「楽しそうだからやってみない?」と言われて芸能事務所のオーディションを受けたのだそうです。3歳の頃に現在も所属すあまり通えなかったとも言われています。母親も大変だったのではないでしょうか。愛菜さんの母親は撮影中、ほかの子役のお母さんたちとは異なり、スタジオの奥で目立たないように控えている、食事の時間だけ愛菜さんにエプロンを付けたりと世話をし、撮影が再開されると、またスタジオの奥に戻っていくという、決して出しゃばらず、遠くから娘を見守っている珍しいタイプの子役のお母さんらしいと言われています。

芦田愛菜さんは礼儀正しく、好感度も非常に高いのは、エリートの父親、奥ゆかしい優秀な母親に育てられたからなのでしょう。特に長い時間を一緒に過ごした母親の影響が大きいと考えられます。

 

渡辺徹の死因は?妻榊原郁恵の献身的な介護にも関わらず。

渡辺徹さんは、2022年11月28日に敗血症で亡くなったと公表されました。以前より急性糖尿病など長く病と闘っていました。妻である榊原郁恵さんの献身的な介護もあったと聞きましたので調べてみました。

渡辺さんは、1991年に急性糖尿病を発症し、2012年には虚血性心疾患で6時間もの大手術を受けていました。2013年には膵炎で入院、2016年からは糖尿病による腎機能低下で週3回の人工透析を受けていました。2021年にも大動脈弁挟窄の手術を受けていました。特に1991年から長期にわたって悩まされたのが糖尿病だったそうです。

妻である榊原郁恵さんは、カロリーと栄養バランスを計算しつくした食事を造り、なんとか病状を悪化させないように健康管理を手ってしようとしていたとのことです。それにもかかわらず渡辺さんの染み付いた食生活を変えることは難しく、渡辺さんは「量が少ない」などと不満を漏らしていたそうです。

時には喧嘩になりながらも献身的な介護を続けてきた榊原郁恵さんの苦労について述べたいと思います。

榊原郁恵さんと言えば、アイドルとしてデビューし、1981年に上演した「ピーターパン」で有名です。「ピーターパン」は郁恵さんが座長を務める初の公演であり、郁恵さんが所属するホリプロが初めて手掛けたミュージカルということもあり、当初は興行的な成功を不安視する声も多かったとのことです。郁恵さんは小柄でありながらスリムな体形で、主役の少年役を演じ、1981年の「ゴールデンアロー賞 演劇賞及び大賞」を受賞しています。この郁恵さんの「ピーターパン」は7年の間、毎年夏の1カ月の間代役無しで飛び続けること340回でのべ76万人を動員しています。公演は都内でも大収容数を誇る新宿コマ劇場で最後尾まで埋まるという客入りで、千秋楽を延ばすほどの人気となり、追加公演びチケット発売には朝から長蛇の列になったそうです。初演での入場者数は50回の公演で12万3564名、日本のミュージカル史上で初演時で採算が取れた初めての作品と言われています。本人曰く「美智子様と紀宮様が観劇に来られたことが一番の思い出」と語っておられます。

1987年に渡辺徹さんとの結婚に伴い、この年を持って「ピーターパン」を降板されています。その年の10月14日に行わられた結婚式と披露宴は生中継され、平均視聴率は40.1%と高い数字を記録しています。

こうして日本中から祝福された渡辺徹さんと榊原郁恵さん、長年の暴飲暴食により体調を崩した渡辺徹さんの糖尿病や食生活をなんとか改善したいと郁恵さんは必至で介護を続けてきました。渡辺さんは一人ではなかなか運動をしなかったとのことで、郁恵さんがたびたびウォーキングに付き添っていたようなのです。夫婦でおしゃべりをしながら歩くのは渡辺さんにとって非常に楽しい時間だったようです。糖尿病はひとたび発症すると治癒することはなく、放置すると網膜症や腎症、神経障害などの合併症を引き起こし、末期になると失明したり透析治療が必要となることがあります。さらに糖尿病は脳卒中や虚血性心疾患などの心血管疾患の合併症を促進することでも知られています。渡辺さんも心臓の手術を複数回経験しており、常に心配は絶えなかったと言います。

渡辺さんは寝る直前まで台本を読むことが多かったとのことで、明かりが迷惑だろうと郁恵さんを気遣って寝室を別にしようと提案したそうです。しかり郁恵さんは「いつ体調が急変するかわからないから」と言い、同じ部屋で寝続けたとのことです。郁恵さんがそれほど渡辺さんの体調を気遣っていたのでしょう。2016年からは腎機能の低下で週3回の人工透析が欠かせなくなり、郁恵さんが病院への送り迎えをすることもあったそうです。

郁恵さんの献身的な介護の甲斐なく、病魔は渡辺さんの身体をむしばみ続けていきました。渡辺さんはここ数年はインスリン注射が手放せない状態だったようです。太り気味な体型もかなりスリムになり、ダイエットの成果だと思われていたのですが体はもう限界だったようなのです。2022年に入ると郁恵さんの生活も変わっていきました。2022年3月には13年に渡り熱心に取り組んできた野菜作りをやめ、一緒に野菜作りをしているメンバーの高齢化のためと周囲の人には話していたようですが、渡辺さんの体調が関係していたのかもしれません。郁恵さんの頭にはいつ何があるかわからないという思いがあったのかもしれません。

いつの頃からか、二人は後悔のない日々を過ごそうとしていたようです。行きつけだったイタリアンレストランの関係者によると、「最後にいらしたのは6月ですが、『まずサラダから』といった以前からのルールは守りつつもリゾットやパスタなどお好きなものを召し上がっていました。美味しい食事が何よりのご褒美だったようです」とのことです。かなり厳しい食事制限を続けていた渡辺さんに好きなものを食べさせようとしていたようなのです。家族でお酒も楽しみ、9月には敬老の日のお祝いで、郁恵さんのお母さんのためになじみのお店に家族で全員で集まったと言います。以前は渡辺さんの食事だけ塩分を控えめにしてもらうこともあったそうなのですが、その時は全員で同じものを食べたと言われています。日本酒を飲みながら二人の息子と演劇談義で盛り上がったと言われています。それからおよそ2か月後の11月28日に渡辺さんは敗血症でお亡くなりになりました。

葬儀後は息子の渡辺裕太さんと二人で、気丈にインタビューに応じた郁恵さんは、渡辺徹さんを「偉大な人だった」と振り返っていました。「もう我慢しなくていいから」と大盛りのご飯を棺に入れたと語っていました。

渡辺さんがこの世を去り、長かった介護生活が終わったかに見えた郁恵さんですが、まだ終わってはいないようです。実は郁恵さんは渡辺さんだけでなく、同居するお母さんの面倒も見ているとのことです。恒例のお母さんを郁恵さんは運転して病院に連れていくこともあるようです。もともとお母さんは神奈川県の厚木に住んでいたそうですが、呼び寄せる形で世田谷区成城の自宅で同居することになり、時々郁恵さんは、お母さんの思い出の地である厚木に連れて行っているようです。さらに郁恵さんは渡辺さんのご両親に対しても、実の親のように接しているそうです。結婚して間もない頃から夫婦で毎月仕送りをし、頻繁に旅行にも連れていかれているようです。渡辺さんは一人っ子で、郁恵さんとご両親の住む栃木県小山市よく訪れていたそうです。嫁姑の中も良好で料理の上手なお義母さんを慕っていたといいます。お義母さんはすでに他界されているそうですが、お義父さんはご健在で施設に入居されており、郁恵さんはとても気にかけているそうです。

郁恵さんはいわゆる多重介護ともいえる状況を続けている郁恵さんですが、二人の息子さんが郁恵さんを支えている様子が葬儀後のインタビューでもうかがえました。これからも実母や義父とも、暖かく暮らしていただきたいと思います。

現在日本では老々介護が社会問題として取り上げられることが多くなっています。郁恵さん自身も還暦を越えられ、無理をなされないことをお祈りしています。二人の息子さんには私語を頑張るとともに、母親の郁恵さんの力になって欲しいものです。

郁恵さん、お疲れ様です。

佐藤蛾次郎の一生に涙が止まらない

国民的人気映画「男はつらいよ」シリーズにも出演した、俳優の佐藤蛾次郎さんが、2022年12月10日に東京都世田谷区の自宅で亡くなっていたことが分かりました。78歳でした。

佐藤蛾次郎さん訃報

関係者によると10日午前10時過ぎに東京都世田谷区の自宅で風呂につかった状態で動かなくなっているのを、訪れた親族が発見し、119番通報したとのことです。遺体に目立った傷などはなく、その場で死亡が確認されました。捜査関係者の調べによりますと、事件性は今のところはないということです。

佐藤蛾次郎さんは独り暮らしで様子を伺いに親族の方が頻繁にご自宅を訪れていたと言います。亡くなったことが確認された前日にも、昼前に長男が訪れて様子を確認されていたとのことです。警視庁が詳しい状況を調べているそうです。

佐藤蛾次郎さんは、国民的人気映画「男はつらいよ」シリーズなど、多くの映画やテレビドラマに出演し、活躍されていました。「男はつらいよ」の舞台となった東京都葛飾区の柴又では、寅さんの弟分「源ちゃん」役として親しまれた蛾次郎さんをしのび、亡くなったことを悲しむ声が聞かれたとのことです。寅さんの実家のモデルとなっただんご屋の社長、石川宏太さんは、「蛾次郎さんは映画の前のドラマが始まった頃から来てくれていて、とても気さくな方でした。ひとり、またひとりと、なじみの俳優さんが亡くなってしまうのは、柴又の人間としてとても寂しいです。」と話していました。

千葉県から柴又を訪れていた夫婦は「寅さんは子供の頃から見ていましたし、びっくりしたのと同時に、同世代の俳優なので寂しいです。」と話していました。

江戸川区の60代の男性は「『男はつらいよ』シリーズは子供の頃から、年末年始とお盆に欠かさず50年近く見続けていたので、亡くなったと聞いてとても残念です。」と話していました。

商店街で仏具店を営む男性は「撮影で店の前を通るときに必ず挨拶してくれて、個人的にお話をしていたため、親しい知り合いが亡くなったような気持ちです。『寅さん』でなじみの俳優がひとりひとりいなくなっていく寂しさを感じています。」と話していました。

生い立ち

佐藤蛾次郎さんは、本名を「佐藤忠和」と言い、大阪府出身で、1944年8月9日生まれです。1953年に朝日放送児童劇団に入団します。1961年に「神州天馬侠」の泣き虫蛾次郎を演じてから、芸名を「佐藤蛾次郎」としました。1968年にはテレビドラマ「男はつらいよ」に出演し、1969年からは映画での「男はつらいよ」に出演していました。柴又題経寺の寺男源吉役として出演後、最終作の1995年まで出演し続けました。

ファンからは全50作すべてに出演したと思われていますが、第8作の「男はつらいよ 寅次郎恋歌」のみポスターに名を重ねているものの、撮影直前に交通事故交通事故に遭い緊急入院したため出演していません。2018年11月4日に開かれた「寅さんサミット」で佐藤蛾次郎さんは、当時のことについて「(自分が)助手席に乗っていたBMWが、100キロでガードレールに突っ込んじゃった。肋骨が5本折れた。」と告白し、「2か月の重体。ワンカットも出られない。しょうがないね。」と残念な思いを語っていました。ちなみに1970年代から1980年代にはアフロヘアーにしていたそうで、テレビドラマとして放送された「柳生一族の陰謀」、映画では「戦国自衛隊」、またテレビドラマの時代劇「服部半蔵 影の軍団」などでも丁髷のカツラを被らず出演していました。人の良い男をコミカルに演じ、そのヘアスタイルを佐藤蛾次郎さんの売りにしていました。

家族

息子さんがおり、名前を佐藤亮太さんと言います。調べてみると1988年生まれの「佐藤亮太」さんがおり、佐藤蛾次郎さんの息子は1973年生まれの「佐藤亮太」さんです。同姓同名で混同されているようです。

佐藤蛾次郎さんの息子は、特撮ヒーロー作品「魔弾戦記リョウケンドー」で佐藤蛾次郎さんが演じた源公をモデルとしたキャラクター「ガジロー」を演じています。「トミカヒーローレスキューフォース 爆裂MOVIEマッハトレインをレスキューせよ!」の同時上映作「爆走!トミカヒーローグランプリ」では、父・佐藤蛾次郎さんと親子共演を果たしています。

奥さんは元女優の方で、姓が変わって佐藤和子さんと言います。馴れ初めは、同じ俳優業ということで仲良くなったのでしょう。43年間もの長きにわたって佐藤蛾次郎さんと連れ添っていたそうです。奥様の死因は、多発性骨髄腫という恐ろしい病気でした。この病気は異物から身体を守ってくれる細胞が、がん細胞になってしまうというとても重篤な病気で、葬儀の後の佐藤蛾次郎さんの記事は、辛い気持ちを何とか抑えた様子となっていました。「これからは猫3匹とひとり暮らしだよ。」と、和子さんの葬儀を済ませたときはとても寂しそうだったようです。続けて「嫁いだ長女には孫もいるんだ。」と笑顔も見せて気持ちを切り変えようとしていた様子に見えたそうです。

カラオケスナック

佐藤蛾次郎さんは、俳優業をいつまでされていたのかわかりませんが、カラオケスナックを経営されていたようです。意外かもしれませんが、佐藤蛾次郎さんは料理が得意で、その腕前をバラエティ番組「ふるさとZIP探偵団」で披露していたり、東京都中央区銀座で「蛾次ママ」を経営されていました。常連客には千葉真一さん、桜木健一さん、小沢真珠さん、矢部美穂さん、渡嘉敷勝男さん、城咲仁さん、猫ひろしさんなどがいるそうです。かつて経営していたカレーハウスで出されていた二日酔いしない薬膳カレーを「蛾次ママ」では「寅さんカレー」として限定裏メニューになっていたそうです。この店はもともと佐藤蛾次郎さん自身と奥さんと息子さんとで経営していたらしいです。薬膳酒の知識も豊富で自分で作った薬膳酒を山田洋次監督飲酒させたところ、酔いつぶれた山田洋次監督が寝込んでしまい「男はつらいよ」の撮影が一時ストップしてしまったというエピソードがあります。

「男はつらいよ」の共演者・前田吟さん(佐藤蛾次郎さんと同じ年)からは、「蛾次やん」の愛称で仲良くされたそうです。持ち前の面倒見の良さから、松田優作さんら当時の若手俳優からは「蛾次兄」と慕われていました。

気になる佐藤蛾次郎さんの稼ぎや年収ですが、一般的な飲食店経営では、経営者になったところでいきなり売上があるわけではないでしょう、起業して最低3年は我慢が必要だと言われています。佐藤蛾次郎さんのケースでは穂本人が有名人ということもあり、それだけで集客力がありそうです。それなので佐藤蛾次郎さんの年収ベースは最低でも800-1000万円の年収とみられています。

普段はコミカルな雰囲気を漂わせている「男はつらいよ」の源公と異なり、長髪を束ねてダンディーな感じをさせていたそうです。長髪にしている理由は「男はつらいよ」の源公を演じたとき既にスケジュールが多忙で、散髪に行けず、気が付いたら長髪が似合っていたと本人が語っています。

昭和の名バイプレーヤーが、またひとり亡くなりました。ご冥福をお祈りいたします。

Kuchingの果物

熱帯は果物が豊富です。

特に好きだったのが、果物の王様ドリアンです。時期は限られていますが、非常に甘い香りで、おいしいクリームチーズのように感じました。但し、それが一日すると結構匂い、味は変わります。現地で業者が朝落ちてきたものを拾って町に持ってきて昼までに食べなければいけません。どうも期から実が落ちで丸一日、24時間過ぎると、匂い、味は変わるようです。

マンゴスチンは、果物の女王と言われています。クチンでは、たしかドリアンの季節の同じような時期に出ていたと思います。甘酸っぱくてドリアンより万人受けする、香りと甘さではないでしょうか。

マンゴーは通年あったと思います。非常に安い果物でしたが、当たり外れがあり、まとめ買いして甘いものを頂くというのが贅沢ですが、よかったです。

パパイアも安く、整腸効果があるとのことで定期的に食べていました。

甘みの多いランブータン

切り口が星模様となるスターフルーツやスイカは、レストランで食後のデザートとしてよく出ていました。

他にもロンガンなど色々とありますが、あまり記憶に残っていません。

Hilton Kuching

クチンにホテルはいろいろとありますが、高級ホテルとしてヒルトンホテルもあります。

出張者や友人が来ると場所がいいので、よく予約をしていました。
そこで言われたのが、「安い」ということです。

Exective Floorもリーズナブルな費用で利用できますのでお勧めです。チェックイン・アウトも専用フロアーで行い、飲み物や軽食もとることができます。

比較していないので正確ではないのですが、世界中のヒルトンの中でも安い部類に入ることは間違いないでしょう。

地元の取引先に、招待されるときは、ヒルトンの中華レストランが多かったです。特に日本からの出張者がいるときは。

子供を連れてプールに遊びにも行っていました。大きくなった子供を連れてまた遊びに行きたいです。

サラワク文化村とダマイ・ビーチリゾート

クチン市内から1時間弱で、サラワク文化村とダマイ・ビーチリゾートがあります。

文化村ではサラワク州の現地人、イバン族やビダユ族の踊りなどが楽しめます。
イバン族は、百年ぐらい前までは首狩り族だったそうです。イバン族の友人の生まれ故郷の地名も忘れましたが、山奥まで遊びに行ったことがあります。高床式の長屋で、トイレも垂れ流しでしたが、雨量が多い熱帯で、おそらく分解が早く、多雨のため自然水洗となっているためと思いますが、匂いが無く、清潔そうだったことに驚いた覚えがあります。
また、古い頭蓋骨が軒先に吊るしてあり、「じいちゃんがやった」と言っていました。おそらくもっと古いと思いますが。
その高床式住居の模型や、ビバユ族のサラワク州鳥のホーンビルの動きを真似た踊りがサラワク文化村では楽しめます。

ダマイビーチは、小さな砂浜があるだけで、アクティビティもなく、海水に浸かり、のんびりと本でも読むのがいいと思います。

ダマイ&カントリークラブという、故アーノルドパーマー監修によるゴルフ場があります。アウトは山側で池越えがあったり、インは海側で海に向かって打ち下ろすパー3があったり、楽しいコースだと思います。

食事はリゾートホテルもありますが、クチン市中からの道中にある、海鮮レストランBeach Seafood Restaurantが安く、おいしかったです。

クチンの簡単な歴史

クチンにはサラワク博物館というサラワク州の自然や歴史、生活様式を集めた総合博物館があります。そこで知った簡単なクチンの歴史を紹介したいと思います。

クチンのあるボルネオ島北西部のサラワク州は、ブルネイ王国の領土でした。19世紀中頃この地で起こった原住民の反乱をイギリス人の探検家ジェームズ・ブルックが合わらせることに成功し、その褒美としてサラワクが割譲され、東南アジアで初めての白人王ジェームズ・ブルック王が統治するサラワク王国が誕生しました。

 

ブルック家の統治は約100年続きました。1941年に日本軍が占領し、第2次世界大戦後はイギリスの植民地となります。1963年にマラヤ連邦に合併し、マレーシア国サラワク州となります。

クチンはサラワク王国時の首都であり、現在でもサラワク州の州都となっています。

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