小澤征爾は日本を追い出された!? ー 有働由美子が暴露する裏の顔とは【追悼】

 世界的な指揮者である小澤征爾さんが、2024年2月6日心不全のために、東京都内の自宅で亡くなりました。享年88歳でした。世界各地の一流交響楽団で式を指揮を執り、オーストリアのウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めるなど『世界のオザワ』として大活躍されてきました。80歳を過ぎても尚、精力的にタクトを振ってきたのですが、近年は腰痛に悩まされて、第一線は退かれていました。

 小澤征爾さんは、1935年9月1日満州で生まれ、小学校の時に日本への引揚げを経験されています。その後、桐朋学園の創立者で指揮者の斎藤秀雄氏の指導を受けて、指揮者を目指したそうです。桐朋学園短大を卒業後に、単身にてフランスに渡ります。パリ滞在中の1959年にブザンソン国際青年指揮者コンクールで優勝するなど、日本国内より先に海外で頭角を現し、1961年にNHK交響楽団
に招かれて日本での指揮者としての活動を始めました。1962年に大きな転機がありました。
 東京芸大の卒業生が多いNHK交響楽団で、20代半ばの、桐朋学園卒の小澤征爾さんに反発し、演奏会をボイコットする事件が発生しました。その後日本と決別する形で、海外に渡ることになりました。1964年にシカゴ交響楽団のラヴィニア音楽祭の音楽監督を務め、同年トロント交響楽団の指揮者、1973年に世界5大オーケストラの一つ、ボストン交響楽団の音楽監督に就任しました。(2002年まで)恩師・斎藤秀雄氏の没後10年を偲び、1984年に門下生100人以上でメモリアルコンサートを実施します。これは、毎年夏に長野県松本市で開催される『サイトウ・キネン・フェスティバル松本』(現在は、『セイジ・オザワ松本フェスティバル』となっています)に発展させ、自身のライフワークとしておられました。1998年に長野オリンピックの音楽監督を担当します。2002年には日本人として初めてウィーン・フィル・ニューイヤーコンサートを指揮するなど、世界で活躍されてきました。

 順風満帆な音楽人生だったのですが、晩年は病に苦しみます。2005年ごろから体調を崩すことが多くなりました。70歳を迎えた2005年末に白内障を手術します。翌年に帯状疱疹、角膜炎を患い、音楽活動を休止しています。2010年には食道がんを公表し、全摘出手術を受けています。その年8月の復帰会見では「家族がラグビーのスクラムのように一体になって助けてくれた」と、妻、長女で作家の小沢征良氏、長男で俳優の小澤征悦氏のサポートに涙を流して感謝していました。そして、「マイペースでやっていきたい」と生涯現役に意欲をみせていました。小澤征爾さんは、2022年8月に、3年振りに開催された『セイジ・オザワ松本フェスティバル』の終演後のカーテンコールに、車いすに乗って登場し、ステージで奏者たちをたたえていました。更新の育成にも力を入れていました。2000年から若い音楽家の教育を目的に『小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト』を開始します。2020年米ボストン市が小澤征爾さんの誕生日を『セイジ・オザワ・デー(小澤征爾の日)』に制定しました。

 小澤征爾さんの訃報について、各界著名人から追悼のコメントが寄せられています。       女優の黒柳徹子さんは、所属事務所を通じて次の追悼の言葉を寄せました。「残念!小澤さんは、世界的な指揮者でした。私の父がヴァイオリニストで、一緒に弦楽四重奏をやっていたチェロの斎藤秀雄さんが小澤さんの先生でした。小澤さんは斎藤秀雄さんが怖くて、今も桐朋の先生のお部屋に入ると、震えると言ってらっしゃいました。子煩悩で、息子のゆきちゃんが俳優になると言ったとき、私の楽屋まで、わざわざ小澤さんがいらして、『息子が俳優になると言っているけど、どうしたもんだろう』とおっしゃっていました。私は『大丈夫でしょう』と言いました。俳優になって、すぐ映画に出たときは、小澤さんも一緒に試写室で、その映画を観たように思います。小澤さんの情熱は、日本の音楽を、熱くしたと思います。亡くなったこと、本当に悲しく、残念です。」                 ヴァイオリニストの葉加瀬太郎さんは、自身のXで追悼の言葉を寄せています。「お疲れさまでした。大変ありがとうございました。ゆっくりお休みください。」                   ヴァイオリニストの木嶋真優さんも、自身のXで、「R.I.P.小澤征爾さん 世界中から集まるスイスの室内楽フェスティバルで小澤さんの指揮の元、出した音は弾いていて身体中が 電流が流れるような忘れられない感覚で今でも忘れられません。身体を壊されたはじめのほうで、当日リハーサル会場に現れた小澤さんが指揮をするかわからない中、『さあ、やろう!』と指揮棒をとった瞬間、世界中の人が目を輝かせて大拍手が沸き起こったあの大拍手の長い時間、まさにこういう方が日本が世界中に誇る、世界中から愛され、世界中から尊敬されるこれから二度と現れない唯一無二の存在だと心が震えました。どうぞ安らかにおやすみください。ありがとうございました。」と寄せています。

 小澤征爾さんにはこんなエピソードがあります。「坊やピアノを習っているのか。しゃれてるなあ。」ウィーン国立歌劇場の裏手にあった和食店でマエストロは、小学3年生だった記者の長男の頭をなでながらおどけていました。そして割り箸入れの紙に番号を書き込み「電話してな。」後日電話すると「リハーサルにきて」と親子ともどもオペラの稽古に招いてくれたそうです。オペラはチェコの作曲家、ヤナーチェクの『イェヌーファ』。寒村を舞台に男女の愛憎のもつれが招く悲劇を描いた傑作です。同劇場の音楽監督就任を翌年(2002年)に控えた新演出による演奏で、マエストロにとっても「勝負」がかかっていた時期です。初日、「ブラボー」が延々と続く中、日本人として誇りに酔いしれたとしています。

 ウィーン特派員だった当時行ったインタビューで、表情が険しくなる瞬間があったと言います。「ぼくは若い頃、日本を追い出された。自分から海外に出たわけじゃない。」NHK交響楽団の楽団員と対立して海外に飛び出しました。結果としてその行動が世界への扉を開くことになるのです。大指揮者のカラヤン、バーンスタイン、ミュンシュ(いずれも故人)。3人を「先生」と呼べる指揮者は他にいないでしょう。才能と情熱が融合した魅力的な人柄で気に入られ深い教えを受けてきました。3巨匠の評価が米国の名門オーケストラ、ボストン交響楽団の音楽監督就任につながったことは間違いないと言われています。ただ本当の師はチェリストで指揮者の前述のとおり故・斎藤秀雄氏でした。「斎藤先生はすごく厳しかった。日本はクラシック音楽の土台がない。技術で勝負するしかなかった。」と小澤征爾さんは語っています。厳しい教えは古典から現代楽曲まで自在に操る高度な指揮技術の基礎となりました。尊敬する師の名は「サイトウ・キネン・オーケストラ」として残っています。

 時代の巨匠が毎年指揮台に立つウィーン・フィルのニューイヤーコンサートに2002年に登場したことも、日本の音楽史にとって大きな出来事でした。音楽の聖地に、日本の存在がしっかりと刻み込まれた瞬間ではないかと思われます。ニューイヤーで「新年おめでとう」を演奏者が各国語で言うシーンがあったそうです。楽屋で「ドイツ語お上手でした」というと「中国語だ」と叱られたというエピソードがあります。旧満州生まれにちなんだ挨拶だったのです。マエストロは日本だけでなく東洋人であることを強く意識していたと思うと周辺は語ります。インタビューの翌日、ウィーンの街中でマエストロに出くわしたそうです。「この人は新聞記者さん」と弟子に紹介し、「記事、よろしく」。歴史的巨匠でありながら、あくまでもカジュアルな自己流を貫いた痛快な音楽人生だったと言えます。

 晩年は『小澤征爾音楽塾』を主宰し若い音楽家を育ててきました。「世界中に才能を持った若者がいる。それが日本人だったりするとうれしくてね。」音楽人生の総仕上げは次世代に芸術を託すことだったと言います。何度も大病に見舞われた後の2017年、水戸室内管弦楽と指揮台に座りながら「第九」を振りました。第3楽章からの登場という異例のコンサートでした。ベートーベンの魂をゆっくりと味わう至高の芸術が紡ぎ出されたのです。

 そんな小澤征爾さんが『世界のオザワ』と言われるきっかけとなったのは『N響事件』と言われています。小澤征爾さんが指揮者だったN響とは『交響楽団』のことを略したものです。NHK交響楽団は公益財団法人でNHKからの出向者が歴代理事長をしている日本国内でも一二を争う人気、実力のある有名なオーケストラです。もともとは1925年3月から前身となる日本交響楽協会の活動から始まっている長い歴史を持つオーケストラです。小澤征爾さんは26歳の時にNHK交響楽団の指揮者に抜擢されています。このNHK交響楽団を指揮することは指揮者にとって非常にすごいことです。26歳という若さでNHK交響楽団の指揮者になったことがN響事件につながっていきます。この事件を簡単に言えば、交響楽団の演奏委員会が小澤征爾さんの指揮をボイコットした事件です。世間からは小澤征爾さんが若くして指揮者に抜擢されたことをよく思われなかったという理由が語られます。若くしてNHK交響楽団の指揮者になった理由として前妻の江戸京子さんの父が関係していると言われています。当時の小澤征爾さんの妻、江戸京子さんの父親は三井不動産社長でした。江戸京子さんの父親、江戸英雄さんの政治力で、若い小澤征爾さんがNHK交響楽団の常任指揮者に抜擢されたと報じられたこともあったそうです。江戸英雄さんが自民党の有力者を通じてNHKに工作を行い、前田義徳さん(NHK専務理事、のち会長)が小澤征爾さんをNHK交響楽団の指揮者にするように命じたとの説を毎日新聞記者であった原田三郎が紹介しています。他にもボイコットした理由として小澤征爾さんの遅刻が原因だったと言われたりもしています。それについては小澤征爾さんも反論していますし事実かどうかは今では不明です。このN響事件で日本から海外に拠点を移す気持ちになったことが、まさに『世界のオザワ』のきっかけになったのです。もしこの事件がなく順調に日本の指揮者だけをやっていたら『世界のオザワ』の地位や名誉はなかったかもしれません。

 2020年9月1日アメリカ・ボストン市がボストン交響楽団の音楽監督を務めた小澤征爾さんの功績を称え、小澤征爾さんの誕生日である9月1日を『セイジ・オザワ・デー』に制定しました。これを受けて、同月4日放送のニッポン放送『うどうのらじお』の中で、小澤征爾さんと親友だと語るパーソナリティの有働由美子さんが、その素顔を話しています。小澤征爾さんと有働由美子さんは、1998年の長野五輪開会式で小澤征爾さんが指揮を執ったことで取材を通じて出会い、その後家族ぐるみでお付き合いをしていると言います。そんな小澤征爾さんとの一番の思い出は、2007年にNHKの海外特派員としてニューヨークで勤務をしていた時のことと有働由美子さんは言います。その頃に小澤征爾さんがニューヨークヒルとボストン交響楽団で指揮をとるためにアメリカに来ることを知り、インタビューをしようとメトロポリタンオペラの関係者入口に待ち構えていました。当時取材を受けていなかった小澤征爾さんでしたが、寒い中、長い時間待ち続け鼻を真っ赤にした有働由美子さんを見かけるなり、施設内に招き入れ、1時間ほどのインタビューに応じてくれたそうです。それまでニューヨークで結果を残すことができていなかった有働由美子さんは、このインタビューを企画にすることが有働由美子さんのキャリアの中で大きな成果になったと言います。「今でも本当に感謝している」と当時を振り返り話しています。そんな小澤征爾さんの素顔について、有働由美子さんは「ただのレッドソックス好きの子供みたいな人」と暴露しています。公の場にもレッドソックスのTシャツに帽子をかぶり現れることもしばしばだそうで、世界で3人くらいしか持っていない、レッドソックス戦のフリーパスを持っているといいます。また、ウィーンでロケをしていた時、小澤征爾さんは道端で楽器を奏でていた老人の前で体育座りをし、メロディーに合わせて指で指揮をしていたというエピソードも披露しています。

 小澤征爾さんのことをいろいろと調べてきました。難しい顔をして指揮している姿の印象からは、気難しい方と思っていましたが、非常にフランクな、明るい方だったようです。ちなみにNHK交響楽団とは、1995年1月23日に小澤征爾さんは32年ぶりに共演を果たして大成功しています。最後には音楽で通じ合えるという音楽家同志の、小澤征爾さんらしいエピソードではないでしょうか。

今後世界各地から小澤征爾さんの死を悲しみ、残念に思うということが数多く寄せられると思われます。偉大な音楽家の死はこれから悲しみを増幅させていくことでしょう。

 小澤征爾さんのご冥福をお祈り申し上げます。

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