事実婚を選択した大橋純子さんに涙【追悼】

 1970年代後半から1980年代にかけて「シルエット・ロマンス」「たそがれマイ・ラブ」などのヒット曲で有名な大橋純子が2023年11月9日に亡くなりました。享年73歳でした。死因は今のところ明らかにされていませんが、食道がんで闘病していたことは公表されています。圧倒的な歌唱力で魅了された人も大勢いることでしょう。晩年はがんと闘いながら、最後まで歌手としてステージに上がる努力を続けていた不屈のヴォーカリストでした。

 体調が急変したのはなくなる1週間ほど前だったととのことでした。緊急入院してそのまま帰らぬ人となってしまったそうです。最初に初期の食道がんを公表したのは2018年3月のことでした。翌4月に左胸に乳腺がんも見つかり、放射線と抗がん剤による治療を併用していたそうです。2019年3月に治療を終えて歌手活動を再開されるのですが、2023年3月の定期検診で食道がんの再発が判明したとのことでした。報道では死因については明らかにされていませんが、食道がんによる闘病中の体調急変だったとのことです。最後まで歌手としてステージに上がる努力を続けていたという大橋純子さん。本当に残念です。治療に専念するために、コンサートも無念の中止となりましたが、その間もボイストレーニングに取り組んでいたそうです。「もんたよしのりwith大橋純子」名で1983年に発表した「夏女ソニア」のデュエット相手、もんたよしのりさん(享年72歳)の訃報に接した先月22日には追悼のコメントを出すなど「元気だった」とレコード会社関係者が言っているように、周囲の人たちは突然の訃報に大変なショックを受けているといいます。

 大橋純子さんのプロフィールを紹介します。大橋純子さんは、北海道出身、1950年4月26日生まれです。プロ歌手を志し北海道から上京しました。短大在学中にバンド活動を開始し、1974年にアルバム「フィーリング・ナウ」でデビューされます。「大橋純子と美乃家セントラル・ステイション」として1977年に発表した「シンプル・ラブ」がヒットします。1978年にはTBSドラマ「獅子のごとく」の主題歌に採用された「たそがれマイ・ラブ」もヒットしました。1979年には第30回NHK紅白歌合戦に「ビューティフル・ミー」で初出場されます。1981年から82年にかけてロングヒットした「シルエット・ロマンス」は約50万枚を売り上げ、第24回日本レコード大賞の最優秀歌唱賞を受賞されます。そのステージには、同じ事務所の北島三郎さんと俳優の田中邦衛さんが駆けつけておられたのが印象的でした。ショートカットにドレス姿で伸びやかな歌声で輝きを放たれていました。2007年には生まれ故郷の北海道夕張市が財政再建団体に認定され田ことを受けて、夕張応援のためにチャリティーアルバム「Terra」を発表します。中島みゆきさんや松山千春さん、GLAYら北海道出身のアーティストをカバーし話題となりました。

 プライベートでは1979年に作曲家の佐藤健氏と結婚されています。この時仲人は北島三郎さん夫妻が務めています。ご主人の佐藤健さんの主な作曲作品は、class「夏の日の1993」、中森明菜「Fin」、小野正利「FLY AWAY」、田原俊彦「堕ちないでマドンナ」などで、大橋純子さんの楽曲も手掛けておられます。俳優「佐藤健(さとうたける)」さんという方がいますが、名前の読み方も異なり全く別人です。実はお二人の関係は、婚姻届けは出されておらず、事実婚じょうたいであったと言われています。なんでも、仕事で悩んでいた大橋純子さんが「結婚して主婦になりたい」と佐藤健さんに話したところ、「逃げるために結婚するのはよくない」と佐藤健さんに諭されたそうです。精神的に弱っている女性を甘やかしてしまう男性は多いと思いますが、佐藤健さんは大橋純子さんの歌手としてことを思って、厳しい言葉をかけたのではないでしょうか。ご夫婦の関係性は良好なようで、婚姻届けが出されていなくてもお二人で納得して、十分素敵な夫婦と言えます。お二人の馴れ初めについてはご本人や情報として見つけられませんでしたが、おそらく仕事を通じてのものと思われます。佐藤健さんがヤマハのL.M.制作室勤務だった20歳ごろに初めて大橋純子さんに出会ったと言われています。大橋純子さんのバックバンド「美乃家セントラル・ステイション」に佐藤健さんが参加していたことがわかっています。佐藤健さんは大橋純子さんに楽曲を提供するなどお二人の接点は多く、その中で愛を育まれておられたのでしょう。お二人に子供がいるかどうか調べてみたのですが、情報はありませんでした。お二人が夫婦となったのは1979年、大橋純子さん29歳の時ですので子供がいても不思議ではありません。しかし一切情報が出てこなかったので子供はおられない可能性が高いのではないでしょうか。大橋純子さんは1979年以降も、多くの輝かしい実績をあげられていますので、それだけ仕事もお忙しかったと思われます。仕事のタイミング的に子供は難しかったのかもしれません。

 「元宝塚の姿月あさとさんとの身長差が20㎝近くある」とのことで、大橋純子さんは姿月あさとさんに慎重を5㎝分けてくれと言っていたエピソードがありました。姿月あさとさんの身長は172㎝とのことですので、大橋純子さんは152㎝程度ではないかと思われます。見た目にもほっそりされていますので、体重は40~45㎏程度ではないでしょうか。そんな小柄な体格ながらあのパワフルな美声が出せるということは、天賦の才能と努力がうかがえます。大橋純子さんのご実家は、北海道夕張市で「天金」という天ぷら屋さんを経営されていたそうです。当時は人気の大衆食堂として賑わっていたそうですが、現在では閉店されているようです。大橋純子さんは小さな子供の頃には実家の食堂でお客さんに歌を披露していて、「歌がうまい」と言われていたそうです。ご家族は、ご両親に、兄が3人という6人家族の末っ子で、一人娘だったそうです。家族構成から見ても周りから可愛がられていたことがわかります。家族に可愛がられ、実家の食道のお客さんからは歌を褒められ、そんな環境が歌手としての大橋純子さんを作っていったのでしょう。

 今回の訃報を受けて、同年代の歌手で女優の今陽子さんは自身のブログで「今朝、朝刊を見て、また悲しい訃報が…。 歌手の大橋純子さんが73歳で食道がんでお亡くなりになりました。あんな小柄なのにスゴイパワフルな伸びのあるパンチヴォイス とってもステキなシンガーでした」と偲んでいます。
 後輩歌手の麻倉未稀さんは、自身のXで「悲しすぎて手を合わせることしかできない」とショックを隠せませんでした。
 ロックバンド「一風堂」の土屋昌巳さんは「大橋純子さんの突然の悲報…。70年代、まだ学校を卒業したばかりの僕は彼女のバンド『美乃家セントラル・ステイション』でR&Bやファンク・ミュージックを自由に演奏することを学ばせて頂きました。本当にやさしくて卓越したヴォーカリストでした。たくさんの思い出をありがとうございました」と感謝を述べておられます。
 ミュージシャンのダイアモンド☆ユカイさんは「『デォンヌワーウィックみたいな声量と天使のような歌声ですね』なんて話したら『あらありがとう。』と照れくさそうに微笑んでくれた事を思い出しました」と大橋純子さんとの思い出を語られ「ご冥福をお祈りします」と追悼しました。
 大橋純子さんの楽曲を数多く手掛けた作詞家の及川眠子さんは「会うたびに『ねこさんいくつになった?』と訊かれて、〇才ですと答えると『若いわぁ何でもできるわねぇ』と言われ、純子さん10才の年齢差は縮まらないですよと笑っていたのに。ずっと10才違いでいてほしかったのに。でもいつか空の上で、またその歌声を聴かせてくださいね」と追悼されています。そして、「中越地震の直後だったと記憶している。愛しい人がある日突然に目の前からいなくなる。遺された者たちにとってはひどくつらいことだけど、忘れなければずっと胸の中でその人は生き続ける。それを死者の立場から書いてほしいと言われた。その歌声はまだ私の胸の中で温かい」と自信が手掛けた大橋純子さんの楽曲「残響」の動画へのリンクを添えています。
 また、DJ HASEBE氏も「大好きな大橋純子さん一緒に作らせていただいたSweet Love、大切な宝物です。気持ちを込めて大切に、大切に、これからもかけ続けます。音楽は素晴らしいですね。流れる歌声で純子さんを皆んなずっと感じることができる。自分はDJなんでそれができます。それしかできないですが。どうか安らかに」と生前の大橋純子さんとのツーショットを添えていました。

 突然の訃報に音楽界にもショックが広がっています。再発語闘病中にも、いつかの復帰を夢見てリハビリとトレーニングを怠らなかった大橋純子さん。またひとり昭和の大歌手がいなくなったことに非常に悲しみを感じます。

 大橋純子さんのご冥福をお祈りいたします。

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