昭和の大スター松方弘樹の壮絶な最期がやばかった。度肝を抜く女性遍歴と慰謝料に驚いた。

最後の昭和の大スターとも呼ばれた松方弘樹さんは、2017年に永眠されました。脳リンパ腫という病気で亡くなりましたが、まえから体調を崩していたそうです。名奉行、遠山の金さん、仁義なき戦いなどの代表作で知られているのはもちろんですが、マグロ釣りが趣味で多くの記録を持っていることでも知られています。もしかしたら女癖の悪い人ということで知っている人もいるかもしれません。何度も結婚離婚を繰り返し、ワイドショーを大いに騒がせたことを覚えている人も多いことと思います。今回はそんな松方弘樹さんの女性遍歴や家族関係を調べてみました。衝撃の最期とまさかの遺産額、豪邸の行方などもわかりました。

生まれ

1942年7月23日に、目黒浩樹として東京都王子区、現在の北区に生まれました。父は時代劇俳優の近衛十四郎さん、母は女優の水川八重子さんという俳優一家に生まれ、17歳でいきなり主演で映画デビューを飾りました。元々は歌手を志望していたそうですが、一緒に歌を学んでいた五木ひろしさんの歌声で自信を無くし、俳優の道に入ることを決意したそうです。当時の映画界は映画会社専属俳優として所属することが主流でしたが、松方弘樹さんはフリーの役者として活躍されます。

活躍

1969年当時大映で勝新太郎さんと人気を二分していた市川雷蔵さんが37歳の若さで亡くなり、松方弘樹さんがその穴を埋めるために大映に臨時で移籍することになり市川さんのはまり役だった「眠狂四郎」のリメイク作品などに出演したことが契機となりました。その後東映「仁義なき戦い」シリーズに出演し、悪役もこなす演技力で注目を集めることになりました。さらにテレビ時代劇「名奉行 遠山の金さん」でお茶の間の人気をものにするとトップスターの階段を駆け上がっていくことになります。

また、映画プロデューサーとしても評価されており、1995年製作総指揮の「蔵」は、日刊スポーツ大賞・石原裕次郎賞を受賞しました。

女性

こうして昭和映画の全盛期を最前線で駆け抜けた松方弘樹さんは、当時の映画俳優には豪快なエピソードを持つ人が多くいますが、その一人として豪快さを持っていたようです。手にしたギャラはスタッフに還元したいと大規模な飲み会を開催し、いつのまにかついてきたファンの分も合わせて総勢60人分の会計を一人で支払ったり、一晩で7升のお酒を飲み干したり、ある時は5人で訪れたステーキハウスで2000万円の会計をその場で現金で支払ったこともあるそうです。こうした豪快さを女性たちが魅力に感じないわけがありませんので、とにかく女性が絶えなかったのも彼の特徴のひとつで「泣かせた女は間違いなく1000人以上」と芸能レポーターは語っているように、その結婚・離婚歴も凄まじいものでした。

最初の妻は夏子さんという女性。元祇園の舞妓さんでモデルの経験もあるそうです。夏子さんとは3人の子供にも恵まれましたが、松方弘樹さんの不倫によって離婚、約10年の結婚生活だったようです。

次の妻が女優の仁科亜希子さん。大河ドラマの共演で知り合った二人は、松方弘樹さんが既婚者だった時から同棲していたそうで、仁科さんのお父さんで俳優の岩井半四郎さんが苦々しい顔で二人の関係についてインタビューされる様子はマスコミにも大きく取り上げられました。

仁科さんとの間には二人の子供ができますが、今度は千葉マリアさんというか首都の不倫が発覚、しかも千葉さんとの間に子供がいたという隠し子騒動にも発展します。このことに起こった仁科さんは不倫を許し、隠し子を認知することは認めたものの代わりにパイプカット手術を受けることを要求、この段階ですでに6人の子供がいた松方弘樹さんは、パイプカットを受け入れて実際に手術を受けたそうです。

これで一安心かと思いきや、仁科さんが子宮頸がんを発症し闘病している最中に祇園の高級クラブで出会った30歳年下の女性を見初めて不倫関係を開始します。1995年にはその女性を山本万里子という名前で女優デビューさせてしまったのだから、相当入れ込んでいたのでしょう。そして不倫関係が始まって7年ほどたった1998年に仁科さんが週刊誌に不倫関係を告発し、松方弘樹さんと仁科さんは離婚、山本さんとはその後松方弘樹さんが亡くなるまで添い遂げましたが、籍は入れず事実婚の関係だったそうです。

こうしてみると、元妻2人、元愛人1人、内縁の妻1人、子供6人とかなり複雑な家庭であることは想像できます。最初の妻である夏子さんは「恨む気持ちなんてありません。感謝の気持ちでいっぱいです」と語っていたそうですが、ほかの女性たちや6人の子供たちの心中は複雑なものが渦巻いているかもしれません。

遺産

複雑な家庭とはいえ、多くの子供たちにめぐまれた松方弘樹さんのお葬式はさぞ多くの参列者に囲まれ華やかな最期だったと思われるかもしれませんが、その実態は昭和の大スターにしては寂しいものでした。松方弘樹さんの盟友で同じく俳優の梅宮辰夫さんによると、参列者は俳優である弟の目黒祐樹夫妻、最初の妻との息子と娘、内縁の妻である山本さん、梅宮さんの6名のみだったそうです。密葬ではあったものの、元妻である夏子さんと仁科さんはともかく子供たちは全員参列してもよかったのではないかと思いますが、実査には2名のみ参列、梅宮さんも「事情はあるんでしょうけど寂しかった」とこぼしていたそうです。また、生前も最期のほうは生気があまりなく、体重も40キロにまで落ちて、「人が来てもぼーっとしている」「反応がなく、せき込んで苦しそうだった」とかなり衰弱して亡くなったそうで、豪快に飲み歩いていた時期を知っている人はその姿だけで寂しさを感じたと言います。松方弘樹さんが亡くなった5か月後に梅宮さんが発起人となって偲ぶ会が行われた時には825人の関係者が参列したそうです。多くの参列者を募ることができたのは、密葬の寂しさは 豪傑 松方弘樹には似合わないと奮起した梅宮さんの心意気だったかもしれません。

彼ほどの大スターがなくなると話題になるのが遺産の話です。全盛期には年間10億円稼いでいたといわれていた松方弘樹さん、山本さんと籍を入れなかったのは「遺産目当てで結婚した」という心無いバッシングや遺産相続のいざこざから山本さんを守るためと言われていました。しかし実際はほとんど資産を残さず、わずかな貯金を山本さんに残しただけだというのです。理由として言われているのは、松方弘樹さんの豪華なお金の使い方、お金が入ればすべて周りに還元したいという信念があり、その通りに実践して生きてきたのでそれほど貯めこんでいなかったといわれています。飲食代に一回数百万から数千万、趣味である釣りには億単位の お金をつぎ込んでいたとも言われ豪快にお金を使っていたそうなのであまり残っていないのも納得できるかもしれません。また、幾度の不倫を繰り返したことで離婚のたびに多額の慰謝料や養育費を支払っていたとのこと、夏子さんとの離婚では、慰謝料3億円と養育費、仁科さんとの離婚の際は慰謝料はなかったものの養育費50万円と3000万円のローンの支払いを受諾、このほかに認知した子供の養育費も払っていたので、これだけでも資産がなくなっていることは容易に想像できます。実際京都に持っていた2500坪の土地に建つヘリポート付きの大豪邸を2004年に売却した原因は子供たちへの養育費だと言われています。生前には常々「俺は何も遺さないけど記憶に残る役者になりたかった、それが勲章だ」と語っていたそうで、まさにその信念通りの最期を迎えた松方弘樹さん。2019年には盟友である梅宮辰夫さんも亡くなっており、今頃はともに切磋琢磨した往年の銀幕のスターたちと大好きなお酒を酌み交わしていることでしょう。

最期までお読みいただきありがとうございました。

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