多岐川裕美さんの現在は? - 元夫の自殺の真相は?、一人娘・多岐川華子の今は?

 デビュー作でいきなり主演を演じ、大胆なヌードも披露し、昭和の時代から人気女優の多岐川裕美さん。年齢を重ねても多くの作品で印象的な役を演じて、女優としても地位を確立しています。
 そんな彼女には、「目が斜視なのでは?」という噂や、「若い頃が美人すぎる」と話題になるほどの圧倒的な美貌がありました。さらには、私生活は、離婚や元夫の自殺、一人娘の離婚・再婚など波乱に満ちているようです。
 今回、そんな多岐川裕美について調べてみました。

 女優としてテレビドラマや映画を始め、バラエティ番組でも多岐川裕美さんは大活躍されています。芸能界には、映画にいきなり主演に抜擢されてデビューされました。また、この作品でヌードを披露したことでも話題になりました。
 その後も女優として輝かしい活躍を長年にわたって続けています。
 ところで、多岐川裕美さんは目が斜視ではないのかという噂が広がったことがあります。
 また、現在でも綺麗な多岐川裕美さんですが、若い頃が美人すぎると今更ながら話題となっています。
 現在の様子やこれまでの私生活について少し深堀してみたいと思います。

 多岐川裕美さんは、本名を「大内薫」と言い、1951年2月16日生まれ、東京都杉並区荻窪のご出身です。会社員の父親と保険の外交員の母親の間に誕生しました。お嬢様学校として知られている、私立の山脇学園中学校・高校に通うなど裕福な家庭だったようです。
 裕福な家庭だったためか、周囲から妬まれてしまうこともあったようで、小学校の頃はイジメにあっていたそうです。
 私立の中学校に進学した理由は、イジメから逃れることのあったかもしれません。ただ、小学生の男児は、好きな女の子にわざと嫌がらせをしてしまうこともあります。今と変わらず当時も美人だったことでしょうから、多岐川裕美さんをイジメていたのも、好きなことの裏返しという理由からかもしれません。

 かつては内向的で人見知りだったという多岐川裕美さんは、1974年、短期大学在学中に東京駅付近でアルバイトをしていたといいます。その時に「聖獣学園」のヒロインを探していた鈴木則文監督にスカウトされました。
 その後東映の社長だった岡田茂さんの面談に合格し女優デビューとなりました。ちなみに芸名の「多岐川裕美」は、デビュー作となった「聖獣学園」の役名だった「多岐川魔矢」からとって苗字は「多岐川」となりました。鈴木則文監督が雑誌を開いたときに、懸賞の1等当選者の名前が「裕美」だったそうで、「多岐川裕美」とい芸名となったそうです。1等当選者から名前を取ったのは、「運を貰えるように」という思いがあったそうです。

 主演デビューを果たし、ヌードまでひろうした多岐川裕美さんですが、この作品以降はヌードになることを拒んでいたようです。しかし、東映実録ヤクザ路線の極北といわれる「仁義の墓場」(1975年)での主人公・石川力夫と破滅に向かうヒロイン役や、「続・愛と誠」(1975年)での影の大番長・高原由紀役などで好演します。
 1976年のNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」に出演したことをきっかけに活動の中心を、多岐川裕美さんはテレビにシフトしました。
 1978年には、「飢餓海峡」でヒロイン役に抜擢されながらヌードを拒み降板し、同年のテレビドラマ「人間の証明」「青春の証明」や、1979年NHK大河ドラマに出演しました。特に1979年のドラマ「七瀬ふたたび」で人気に火が付きました。

 1980年には早稲田大学生の人気投票で1位になるなど特に若者の間で確固たる人気を獲得しています。清純派スタートして売れていることで、デビュー作「聖獣学園」で芸能マスコミに報じられ、「監督に騙されてヌードになった」という発言が週刊誌に掲載されて、鈴木文則監督から、「騙したとは何ごとか!映画人の名誉にかかわる問題、告訴も辞さず」と厳重抗議されるなどひと悶着もありました。

 人気に背を押されるように女優業に加え、歌手やバラエティ番組への出演など活躍の場を次第に広げるようになります。
 1978年から1979年まで放送された「柳生一族の陰謀」でヒロインに扮し、1979年「俺たちは天使だ!」ではクールながらコミカルな一面を持つ秘書を演じるなど活躍します。

 こうして女優として活躍している最中に多岐川裕美さんは歌手としてもレコードをリリースしています。
 1980年にリリースした「酸っぱい経験」はカゴメのCM曲に抜擢されました。そして1983年にリリースした渡哲也さんとのデュエット曲「めぐり逢いしのび逢い」はヒットしました。

 若い頃からとてもお綺麗な多岐川裕美さんですが、「目が変」という声が上がっており、斜視なのではないかと言われています。斜視と言われている多岐川裕美さんですが、写真で確認すると、年齢のせいで斜視になった訳ではなく、若い頃だったようです。
 斜視とは両目の視線が合わなくなる病気で、日本人では約3%の人が斜視だという統計データもあるぐらい、罹患者が多い疾患となっています。斜視の人の大半は、幼いうちから症状が現れるそうです。ですが、子どもの目の様子に異変を感じない家族も多くいるようで、何年もの間斜視であることに気づかずに過ごしているケースがあると言われています。
 古くからの画像を見るとわかりますが、多岐川裕美さんは若い頃から斜視のようですが、ひどい斜視ではなく軽度のようです。しかし、芸能人には斜視の方がたくさんいるようです。決して珍しいことではないのでしょう。イケメンで有名な山Pこと山下智久さんも斜視で有名です。

 目が斜視であることが判明した多岐川裕美さんですが、どうやら「病気ではないか」という噂があるようです。
 なぜ、このような噂が出たかというと、事の発端は多岐川裕美さんが2017年10月9日放送の「名医のTHE太鼓判!」余命ワーストランキングに出演された際、余命ワーストランキング5位に選ばれたからなのです。余命ワーストランキング第6位は井戸田潤さん、第5位は多岐川裕美さん、第4位は片岡鶴太郎さんでした。
 東京国際クリニックで検査したところ、MRI画像から隠れ脳梗塞が発見されたと言います。多岐川裕美さんは、「確かに覚えが悪くなっている」とコメントしています。
 多岐川裕美さんの余命は、16年で寿命は82歳と診断されました。担当した医師は、「隠れ脳梗塞の数が多く、認知症の原因などになる」と語ったのです。対策として定期的な有酸素運動などがおすすめされ、それを取り入れているそうです。

 こうして隠れ脳梗塞が判明した多岐川裕美さんは、綺麗な外見からは想像できませんが、若い頃は毎日大量にお酒を飲み、タバコも2箱以上吸っていたそうです。現在は、体調を気にしてあまり不摂生はしていないそうです。

 プライベートでは1984年、当時担当マネージャーだった阿知波信介さんと結婚し、長女・華子さんを出産しました。
 元々は俳優として「ウルトラセブン」を始め、数々のドラマや映画に出演した阿知波信介さんですが、俳優としての活動に限界を感じたのかその後、引退して三船プロダクションのスタッフになりました。
 1979年の三船プロダクション内紛時には多岐川裕美さんと阿知波信介さんは共に田中プロモーションに移籍します。その後、再度分裂時にも行動を共にしてアクターズプロモーションへ移籍します。
 多岐川裕美さんと結婚時、阿知波信介さんはアクターズプロモーションの副社長、社長には竜雷太さんを担ぎ出しており、実質的に社長職を行うとともに、アクターズエージェンシーの社長でした。
 事務所社長と所属女優という立場から公私に渡るパートナーとなった二人でしたが、結婚から4年後の1988年には長女・華子さんが誕生するなど幸せな家庭を築いていました。
 ところが、結婚から13年後の1997年に二人は離婚しました。ただ、離婚後も多岐川裕美さんは阿知波信介さんが社長を務める事務所の所属は継続しました。きっと二人とも「仕事と私生活は別」と割り切っていたのでしょう。
 1997年に13年続いた夫婦生活にピリオドを打った阿知波信介さんと多岐川裕美さんは、デビュー当時から二人三脚で芸能活動を行うなど公私に渡って深い関係にありました。そのうえ事務所に所属続けるなど、よほどの理由があったと想像できます。そこで離婚原因を調べてみると阿知波信介さんの不倫が原因ということがわかりました。
 多岐川裕美さんと離婚後、阿知波信介さんは20歳年下の女性・純子さんと結婚されています。おそらくこの純子さんが不倫相手だったのではないでしょうか。女優として活躍する自分を差し置いて一般人と不倫したということに多岐川裕美さんのプライド相当傷ついたと思われます。多岐川裕美さんが離婚を選択するのは当然だったのでしょう。
 離婚後も下右脳事務所副社長と所属女優という関係を継続させた阿知波信介さんと多岐川裕美さんですが、2007年にその関係は終わります。2007年に阿知波信介さんが亡くなってしまうのです。
 亡くなる3年前に脳梗塞で入院していた阿知波信介さんですが、その後も高血圧などにより体力と気力の低下を感じ、周囲に相談していたそうです。また、阿知波信介さんの死後、アクターズプロモーションは破産申請をしています。そのため社長を務める事務所の経営が思わしくなかったことも阿知波信介さんを苦しめていた可能性も高そうです。
 阿知波信介さんは、鹿児島県の「犬飼の滝」に飛び込み亡くなりました。阿知波信介さんは自殺をするために鹿児島県に赴くとは思えません。また、遺書も残されていないとのことなので突発的に自死を選んだと思われます。もしかすると阿知波信介さんは、鬱に近い状態だったかもしれません。

 阿知波信介さんと離婚後、多岐川裕美さんは一人娘・多岐川華子さんを女手一つで育てました。
 シングルマザーとはいえ大女優だけあって、多岐川華子さんは何不自由ない生活どころか贅沢三昧の日々だったようです。小学生にして飛行機はビジネスクラス、旅行先に泊まるのは高級ホテルと幼少期から誰もが羨むような生活を送ってきたようです。

 そんな多岐川華子さんは両親が芸能界関係者ということで、14歳の時「母のようにチヤホヤされたい」という憧れから芸能界入りを希望し、反対する多岐川裕美さんに内緒で自ら10社以上の芸能事務所に履歴書を送りオーディションを受けますが全滅でした。最後には多岐川裕美さんの紹介で芸能事務所に所属することになりました。当初は反対していた多岐川裕美さんですが、10社以上のオーディションを受ける一人娘の姿を見て「力になりたい」と思ったのではないでしょうか。
 多岐川華子さんは芸能事務所入りして3か月後にCMに出演し、本格的に芸能活動を始めました。雑誌のグラビアやバラエティ番組で活躍し、瞬く間に人気タレントの仲間入りを果たしました。


 更なる飛躍が期待された多岐川華子さんですが、2011年1月の22歳の時に、松方弘樹さんと仁科亜季子さんの息子である仁科克基さんと結婚しました。大物タレントの子ども同士の結婚は当時、大きな話題となりました。ところは結婚から2年も経たないうちに二人は離婚します。離婚の原因は仁科克基さんのキャバクラ通いでした。多岐川裕美さん、多岐川華子さんは親子そろって夫の女癖の悪さで離婚してしまったようです。
 そんな多岐川華子さんは、離婚後芸名を「多岐川華子」から「華子」に変え、母の力を借りずに「ゼロからのスタート」として事務所も変わられます。その後再び事務所を変更し、その時に「多岐川華子」に芸名を変えられます。そのような芸能活動をしながらジムのアルバイトを経験したり、2021年にはヨガインストラクターも始めたと明かされています。
 2023年8月に一般男性と再婚されます。2023年11月20日に第一子妊娠を公表し、2024年3月18日に第一子女児を出産したと報告されています。

 如何でしょうか。女優の第一線で活躍を続けてこられた多岐川裕美さんですが、離婚やその後の元夫の自殺など、私生活は波乱万丈ともいえます。しかし一人娘の多岐川華子は、離婚は経験されますが、その後再婚され、出産されています。多岐川裕美さんはお孫さんに恵まれたことになります。
 テレビ番組で発見された病気については経過観察とはいえ心配されるところです。
 これからも健康には十分に注意されて、活躍されると共に、お孫さんを抱いた幸せな私生活を送られることを祈りたいと思います。

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