「アカシアの雨がやむとき」、「東京ブルース」など、数々の名曲で昭和の音楽シーンを彩った西田佐知子さんについて、調べてみました。関口宏さんの妻として現在はどのような関係になっているのでしょうか?
透明感のある歌声で、戦後の日本の復興期から高度経済成長期にかけて、多くの人々の心に寄り添う名曲で、深く刻まれています。2024年に85歳になられた西田佐知子さんについて、高齢でもあり体調面を心配する声が多くあります。輝かしい芸能活動の実績から現在の様子まで、時代背景を考えながら書いてみたいと思います。
西田佐知子さんは、1939年1月9日大阪市城東区生まれです。
本名は関口佐知子さんといいます。戦中から戦後の今ら気に幼少期を過ごし、音楽への情熱は高く、帝国女子高等学校(現・相愛高等学校)を卒業後、歌手としてデビューを果たします。
当時の日本の音楽界は、占領軍のアメリカ向けの洋楽の影響を強く受けながらも、日本独自の歌謡曲文化が花開こうとしている時期でした。
西田佐知子さんは1960年に「アカシアの雨がやむとき」でブレイクします。この曲は、梅雨の季節に咲くアカシアの花を象徴的に用いて、切ない恋心を歌い上げた名曲として知られています。作詞は西條八十、作曲は古賀政男という、当時の日本歌謡界を代表する名コンビによ珠玉の作品でした。
続いて「エリカの花散るとき」(1962年)では、ドイツ民謡をモチーフにした異国情緒あふれる楽曲で、聴衆の心を捉えました。
1964年には「東京ブルース」を発表。高度経済成長期の東京を舞台に、都会の孤独と憧れを見事に表現した楽曲として、大きな反響を呼びました。
翌1965年には、「女の意地」「赤坂の夜は更けて」と立て続けにヒット曲を送り出し、その歌唱力と表現力で、多くのファンを魅了し続けました。
当時の音楽番組では、端正な容姿と済んだ歌声で、視聴者の心を掴んでいった西田佐知子さんです。特に歌番組「夜のヒットスタジオ」では、常連出演者として人気を博しました。
その歌声は、戦後の復興から経済成長期へと向かう日本人の心の機微を巧みに表現し、時代の空気感を見事に捉えていたのです。
1971年西田佐知子さんは当時既に人気司会者として知られていた関口宏さんと結婚します。この結婚は当時の芸能界で大きな話題となりました。
当時、関口宏さんは「新婚さんいらっしゃい!」などの人気番組の司会者としてその鋭い洞察力と温かい人柄で視聴者の指示を得ていました。
結婚に際して、西田佐知子さんは芸能界からの引退を決意します。この決断の背景には、関口宏さんの父親からの「結婚したら、家庭に専念してほしい」という要望があったと言われています。
当時の日本社会における女性の立場や、家庭を重視する価値観が反映された決断でした。
芸能界での活躍の場を自ら手放すという選択は、多くのファンを驚かせましたが、それは彼女自身の意志でもあったのです。
最後の作品となった1982年のシングル「テレビを見ている女」をリリースした後は、完全に専業主婦としての道を歩み始めました。この曲はテレビという当時の新しいメディアを通じて世界を見つめる女性の心情を歌った、時代を象徴する作品でもありました。
その後は家庭に専念し、夫の関口宏さんと息子の関口知宏さんを支える生活を送ることになります。
1985年から住み始めた世田谷区の自宅は、「関口御殿」と呼ばれ、地域の象徴的な存在でした。約545m2という広大な敷地に建てられたこの邸宅は、地下室も備えた本格的な豪邸で、建設当時でも土地と建物を合わせて推定5億円とも言われていました。
バブル経済期の象徴とも言えるこの邸宅で、西田佐知子さんと関口宏さんは、長年にわたって充実した家庭生活を送ってきました。邸宅内には、凝った意匠の階段や広々としたリビング、日本庭園を思わせる庭など、贅を尽くした設えが施されていました。
近隣住民からは、季節の花々が美しく咲き誇る庭の手入れが行き届いている事や、夫婦そろって散歩する姿が度々目撃されるなど、その生活ぶりは地域の話題となるほどでした。
しかし年齢を重ねるにつれて、大きな邸宅での生活の維持が課題となり、特に階段の昇り降りが負担になってきたことから、関口宏さんは「年を取ったらマンションが良い」と考えるようになります。さらに西田佐知子さんの体調面での考慮もあり、医療施設が近接する港区の最新設備が供えられたタワーマンションの最上階ペントハウスに移られているようです。
その結果、長年住み慣れた関口御殿は解体され更地となりました。
近隣住民にとっては、街のシンボル的存在であった建物がなくなることへの寂しさもあったようですが、夫婦の新たな生活の始まりでもありました。
2017年4月ごろから体調を崩されたとの情報が伝えられて、その後の療養生活が続いているとされています。
関口宏さんは妻のプライバシーを守るため、具体的な病状については詳しく語ることを控えています。これは家庭人、夫として当然の配慮だと思います。
現在の住まいは、24時間体制の警備が整い、医療施設にも近く、バリアフリー設計が施された環境で、療養生活に最適な場所となっているようです。近隣の住民の話によると、関口宏さんは「サンデーモーニング」の関係者と思われる人々と食事に出かけるなど、活発に活動している姿が目撃されていると言います。特に近所の中華料理店では、関口宏さんの姿がよく見かけられているとのことです。4~5人のスタッフと共に、番組の打ち合わせを兼ねた食事をしている様子が度々目撃されています。
一方で、西口佐知子さんについては、静かな療養生活を送られているようです。関口宏さんは取材を受けて、「身体を壊した時期はあったけれど今は元気」と答え、「今は元気」という部分を強調するように語ったと言われています。
普段テレビ番組で見せる鋭い口調とは異なり、関口宏さんが妻について語る時は、静かで温かな口調だったと伝えられています。介護の状況について聞かれた際には、「そんなことはない」と答えており、付き添いの方々のサポートを受けながら、夫婦で穏やかな生活を送っているものと推察されます。
息子の関口知宏さんは別居していますが、家族として常に気にかけ、支え合う関係を保っているようです。
1972年7月1日生まれの関口知宏さんは、両親の愛情のもと、独自の道を歩んできました。大学卒業後の1996年に、父・関口宏さんが社長を務める芸能事務所「三桂」に所属し、同年「MMR未確認飛行物体」(フジテレビ)でデビューしました。
その後、「あぶない刑事リターンズ」をはじめとする数々のドラマに出演し、俳優としての実力を着実に磨いてきました。
2004年、NHK BShi「列島縦断 鉄道12000キロの旅」への出演が、関口知宏さんのキャリアの大きな転換点となります。この番組をきっかけに、関口知宏さんは「鉄道の旅人」として独自の位置を確立されます。
その後、日本国内だけでなく、ヨーロッパや中国など、世界各地を旅する番組で活躍されています。特に「関口知宏の中国鉄道大紀行」シリーズは、視聴者から高い支持を得ました。
しかし、過酷な撮影スケジュールによる心身への負担から、一時的な休止をすることもありました。このエピソードは、関口知宏さんの仕事への取り組み姿勢が真摯であるとして、多くの視聴者の共感を呼ぶこととなります。
また、関口知宏さんは絵画の才能にも恵まれており、旅先での印象的な風景や出会いを、独特のタッチで描き留めています。これらの絵画は単なる記録でなく、関口知宏さんの感性を通して紡がれる旅の物語として、多くのファンに愛されています。
一見すると陽気で活動的に見える関口知宏さんですが、実は繊細な内面を持つインドア派の一面も持ち合わせています。家でのリフォームを作業を趣味とするなど、意外な素顔もあります。
西田佐知子さんと関口宏さんの50年以上に及ぶ結婚生活は、まさに「おしどり夫婦」という言葉がふさわしいものです。
芸能界を引退して、家庭に専念し、関口宏さんを支え続けた西田佐知子さんです。
夫として関口宏さんも家庭を大事されてきました。
高齢となった現在でも健康面の不安を抱えながらも、二人三脚でお二人で人生を歩み続けています。関口宏さんは現在も第一線で活躍を続けています。妻・西田佐知子さんの療養生活をしっかりとサポートしながら仕事と家庭との両立を図っています。おふたりの深い絆は、周りの人々の心に感動を与えています。
私たちに数々の名曲を届けてくれた西田佐知子さんがお元気で過ごされることをファンの一人として心から願わずにはいられません。
関口宏さんも今後も健康には十分に留意されて、素晴らしいご活躍を続けていただきたいと思います。
息子の関口知宏さんにも、本業の俳優だけでなく音楽活動にもご活躍され、ご両親を支えて欲しいと思わざるを得ません。