マレーシア・サラワク州に駐在していた数十年前、私はある特別な場所を訪れました。クチンから車で約4時間、さらにボートに揺られて辿り着く人工湖、バタン・アイ(Batang Ai)。そこにある、当時は「ヒルトン」の名を冠していた壮麗なロングハウス・スタイルのリゾートです。しかし、私がそこで経験したのは、華やかなリゾートライフではありませんでした。それは、この土地が背負う「沈黙の歴史」と、サラワクの先住民族が守り続ける「本物の暮らし」に触れる旅の始まりだったのです。
Contents
1. 人工湖に沈んだ村々と、残された人々の仕事
バタン・アイの湖は、1980年代に建設されたダムによって生まれた広大な人工湖です。その底には、かつてイバン族の人々が営んでいた26ものロングハウスと、彼らの先祖代々の土地が静かに沈んでいます。
私が訪れた際、ホテルの建設背景について興味深い話を聞きました。この巨大なホテルは、土地を失った地域住民の雇用を創出するために建てられたという側面があったのです。
しかし、訪れた時期が悪かったのか、ガワイ(収穫祭)などの重要な祭礼の時期には、従業員たちの多くが「自分の本当の故郷(ロングハウス)」へと帰ってしまいます。冷房の効いた涼しいロビーには人影がまばらで、静寂だけが支配する場所。当時は「楽しみが何もない」と感じたその静けさこそが、水没した故郷を想う人々の不在を物語っていたのかもしれません。
2. 「カルチュラルビレッジ」では見られない、生きた呼吸
クチン近郊には、素晴らしい「サラワク・カルチュラルビレッジ(SCV)」があります。各民族の家屋が再現され、見事な舞踊を年中楽しめます。しかし、そこはあくまで「生きた博物館」。
もし、あなたがサラワクの本質に触れたいのであれば、リゾートのデッキから眺めるだけでなく、一歩踏み込んで「本物のロングハウス」を訪ねてほしいのです。
私がかつて現地の友人の実家に招かれた時、そこにあったのは観光客向けのショーではありませんでした。
- Ruai(ルアイ): 全家族が共有する長い廊下。そこではお年寄りが網を編み、子供たちが走り回り、夜にはトゥア(米酒)を酌み交わしながら延々と語り合いが続きます。
- 生活の音: 鶏の声、豚の鳴き声、そしてジャングルの濃密な空気感。
- ガワイの熱狂: お祭りの時期、ロングハウスは「観光地」から「魂の帰還場所」へと変わります。
3. 単なる旅行者が「本物」に出会うには?
数十年が経った今、かつての私のように「現地の知り合いの伝手」がなくても、本物のロングハウスを体験する道は開かれています。
現在、サラワク州政府は**「ホームステイ・プログラム」を推進しており、例えばクチンから行けるアンナ・ライス(Annah Rais)**のような古いロングハウスでは、実際に住民と共に過ごす滞在型観光を受け入れています。
もちろん、リゾートのような快適さはありません。シャワーは水かもしれませんし、虫もいるでしょう。しかし、そこにはバタン・アイの湖底に沈んでしまったかもしれない「共同体の絆」が、今も確かに息づいています。
結びに:静寂の先にあるもの
今でもあのバタン・アイのリゾートを思い出すとき、耳に残っているのは豪華な音楽ではなく、湖面を渡る風の音と、人影の消えたホテルの静寂です。
豪華なホテルに泊まるのも一つの旅。しかし、もし許されるなら、その先にある「本物のロングハウス」の扉を叩いてみてください。数十年経っても色褪せない、マレーシアの真の温かさが、そこにはあります。