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1. 異色の経歴:板前からアングラ演劇、そして映画界へ
近藤正臣(こんどう まさおみ)は1942年2月15日、京都市に生まれました。そのキャリアの始まりは、一般的な俳優のそれとは大きく異なっています。
🔪 板前修業の挫折
高校卒業後、母親が営んでいた小料理店を継ぐため、近藤さんは大阪の有名料亭「吉兆」で板前修業を始めます。しかし、旧態依然とした料理界の厳しさ、理不尽な徒弟制度に馴染めず、わずか3ヶ月で挫折。この決断が、後の人生を大きく変えることになります。
🎭 アングラ劇団での放浪生活
板前を辞めた後、行くあてもなく集まった仲間たちと、アングラ劇団「ドラマ工房」を結成し、演劇活動に没頭します。当時の生活は極貧で、劇場の費用も捻出できないほどでしたが、この時期に培った反骨精神と表現への情熱が、近藤さんの芸の骨格を形成しました。
🎬 運命の映画デビュー
劇団の活動費を稼ぐため、「エキストラのバイトがある」と聞き、撮影所に入り浸っていた近藤さん。そこで、映画『エロ事師たちより 人類学入門』(1966年)を撮影中だった今村昌平監督のスタッフの目に留まります。これが俳優デビューのきっかけとなり、23歳でプロの道を踏み出しました。
2. 俳優としてのブレイクと確固たる地位
近藤さんが全国的な人気を獲得したのは、テレビドラマでの活躍でした。
🥋 「柔道一直線」でのブレイク
1969年から放送された人気テレビドラマ『柔道一直線』(TBS系)で、主人公・桜木健一演じる主人公のライバル、結城真吾役を演じ、一躍脚光を浴びます。長髪でニヒルな二枚目という当時のテレビ界では異色のキャラクターは、多くの若者を熱狂させました。
⚔️ 大河ドラマ「国盗り物語」の明智光秀
その人気を決定づけたのは、1973年のNHK大河ドラマ『国盗り物語』での明智光秀役です。戦国の名将を演じることで、単なるアイドル的な存在から、本格派俳優としての地位を確立しました。
その後も、大河ドラマでは『黄金の日日』(石田三成役)、『龍馬伝』(山内容堂役)、『真田丸』(本多正信役)など、数多くの重厚な役柄を歴任。また、連続テレビ小説にも『カーネーション』、『ごちそうさん』、『あさが来た』など多数出演し、名バイプレイヤーとして、あるいは物語の要となる人物として、日本の映像界を支え続けています。
3. プライベート:結婚と愛する妻との別れ
近藤さんはプライベートについて多くを語らないことで知られていますが、結婚生活と妻への深い愛情は、その後の人生観に大きな影響を与えています。
💐 結婚と夫婦の絆
近藤さんは1972年に、舞台の制作関係の仕事をしていた女性と結婚しました。彼女は近藤さんのマネージャー的な役割も担い、長きにわたり公私にわたるパートナーとして俳優生活を支え続けました。近藤さんは、インタビューなどで、俳優という不安定な仕事をする自分を支えてくれた妻への感謝を度々口にしています。
💔 郡上での介護、そして別離
晩年、妻が認知症を患い、近藤さんは愛する郡上八幡での生活が介護の日々となります。そして、2023年、奥様は亡くなられました。最愛の妻との別れは、近藤さんの心に深い喪失感を残しました。この「老い」と「孤独」に向き合う姿は、NHKのドキュメンタリー番組でも取り上げられ、多くの視聴者の共感を呼びました。
4. 終の住処、郡上八幡への移住と現在の暮らし
近藤さんの人生における最重要キーワードの一つが、岐阜県にある**郡上八幡(ぐじょうはちまん)**です。
🎣 40年間通い続けた理由
近藤さんは、鮎釣りの名所として知られる郡上八幡の長良川や吉田川に、若い頃から実に40年間も通い続けました。その豊かな自然、清らかな水、そして地元の人々の温かさに魅了され、「ここを終の住処にしよう」と決意します。
🌲 俳優業と里山暮らしの両立
2017年頃、近藤さんは東京の自宅を処分し、愛する妻と共に郡上八幡へ本格的に移住しました。俳優業を続けながらも、里山での生活を満喫し、釣りや薪割りなどを楽しむ日々を送っていました。この移住は、自身の自然体な生き方を体現する、象徴的な出来事となりました。
📰 最近のご様子と病状
最愛の妻を亡くし、現在は郡上八幡で愛猫と共にひとり暮らしをされています。
2024年4月には、腰部の圧迫骨折をされ、治療に専念するため、出演が予定されていたNHK BSの紀行番組『にっぽん縦断 こころ旅』への参加を取り止めました。大好きな釣りも一時中断せざるを得ない状況ですが、現在は回復に向けて治療を続けているとのことです。
80歳を超えてなお、近藤正臣さんは、その独自の美学と人生観をもって、俳優として、また一人の人間として、深く豊かな人生を歩み続けています。