原日出子さんは夫の死を乗り越えたのか - 渡辺裕之さんが亡くなるまでの様子は?

 今回、劇団四季の研究生として女優デビューし、1979年には、映画「夕焼けのマイ・ウェイ」で初出演し、一時は歌手でも活躍された、ベテラン女優の原日出子さんの最近の状況など調べてみました。

 俳優の渡辺裕之さんが2022年5

月に自死するという痛ましい出来事が起きてから数年がたちました。奥様の原日出子さんと渡辺裕之さんは、実は再婚でしかも連れ子と実子がいるというとこをご存じでしょうか。また、渡辺裕之さんは死の直前には心の病を抱えていたという噂もあります。それらの真相に迫ってみたいと思います。

 長男の渡辺貴裕さんは、元俳優です。高校一年生から芸能活動をしていましたが、現在は引退されています。調べてみたところ、Ever Green Entertainmentという芸能事務所に所属し、2.5次元俳優や舞台俳優をメインに活動するものの、2021年3月1日に事務所を退所し俳優業も辞めました。バンド「Tact」に2019年加入しますが、2年後の2021年3月に解散し、現在は一般人として過ごされています。

 渡辺裕之さんは66歳という若さで、早すぎる死を迎えたため、悲報を知ったファンはもちろん世間全体が悲しみに包まれました。何故このような事態に陥ってしまったのでしょうか。
 渡辺裕之さんは2022年5月3日に亡くなられていたことが所属事務所より報告されました。自宅地下のトレーニングルームで縊死されており、第一発見者は家族だったようです。突然の悲報に、家族や関係者はもちろんファンも悲しみに暮れました。
 葬儀は親しい人間だけで行ったそうです。

 原日出子さんは渡辺裕之さんの死に対して、かなり参ってしまい得意な料理も作れなくなり、睡眠もうまく取れなくなるほど日常生活に影響を及ぼしていると語っていました。

 仕事もプライベートも順風満帆に見えた渡辺裕之さんでしたが、何故自ら「死」の選択を取ってしまったのでしょうか。その理由はコロナによるストレスが招いた病気だったようです。
 自分よりも家族を大切にする渡辺裕之さんはコロナに対して、かなり心配されていたといいます。そのストレスから眠れなくなり、病院へ行くと「自律神経失調症」と診断されたそうです。その後、仕事に戻り多忙な生活を送るものの、改善の兆しが見えないコロナ禍での生活は、ストレスや悩みを蓄積していきました。

 亡くなる前日は、趣味で特技であるゴルフの番組の出演の準備を楽しそうにしており、病気を心配していた家族も安堵していたと言います。しかし、翌日に亡くなってしまいました。
 前述の通り、原日出子さんは渡辺裕之さんが亡くなってから台所に立てなくなったり、窓も開けたりできないほど悲しみに暮れていたそうです。しかし、子どもたちや近所の友人、遠方の友人たちに支えてもらい、なんとか日常生活を取り戻してきたそうです。
 原日出子さんのInstagramを見るとわかるのですが、周りには多くの人がおり、原日出子さんの人柄の良さが人を惹きつけているのでしょう。

 ところで、渡辺裕之さんの実弟に対して行われたインタビュー記事があります。日付や年齢、肩書などは当時のままです。内容は、故人の実弟・幹夫さんは取材に応え、亡き兄への思いを語っています。
 改めて、幹夫さんが明かした最後の会話、そして渡辺裕之さんの妻・原日出子さんへの思いを振り返りたいと思います。
 「連絡をもらったのは亡くなった、その直後だったと思います。ただただ驚きました。」と語るのは、渡辺さんの実弟・幹夫さんです。幹夫さんは渡辺裕之さんの3歳下で、一時は兄のマネージャーを務めていたこともあると言います。「翌日には遺体と対面しました。原さんはやはり傷心の様子でしたね。代わりに、子どもたちがしっかりと対応していましたよ…」と言葉少なに語ります。
 渡辺裕之さんがこの世を去ったのは、2022年5月3日のことでした。憲法記念日のその日、横浜市内の自宅にいた渡辺裕之さんは午前中、地下に設置されているトレーニングルームに入ったと言います。昼頃、原日出子さんが昼食の用意ができた、と呼びに行ったところ、倒れていた渡辺裕之さんを発見します。その後、死亡が確認されました。
 死因は縊死(いし)と発表され、遺書は無かったそうです。

 渡辺裕之さんは特撮映画や恋愛ドラマで俳優として人気を博す一方、鍛え上げた肉体を生かしCMでも活躍してきました。中でも、「リポビタンD」のCMで「ファイト、一発!」と叫ぶ姿で大きな脚光を浴びたことを覚えている方も多いことでしょう。
 妻の原日出子さんとはおしどり夫婦として知られ、また、2022年に入っても複数のドラマに出演し、予定も含めて出演映画が6本公開されるなど、仕事は順調でした。
 渡辺裕之さんのプライベートでは趣味のゴルフはプロ級の腕前。ジャズバンドを組んでドラムを担当し、ライブに出演することもありました。さらには、ゴミ拾いが日課で、毎朝、ジョギングや散歩がてら、ゴミ袋を両手に持ち、空き缶やたばこの吸い殻を拾う姿がメディアにしばしば取り上げられていました。外からは、およそ自殺という言葉からかけ離れた人物に見えただけに、衝撃が走ったのです。

 「どこかしょんぼりした様子」「ニュースを聞いて本当に驚いていますよ」とは、渡辺裕之さんの近隣住民の一人の言葉です。「渡辺さんといえば、やっぱりゴミ拾いの姿。毎朝、小学生の登校前、朝の7時頃には始めて、ある時など歩いて30分もかかる隣町でも拾っている姿をお見かけしました。」
 その熱心さは尋常ではなかったといい、別の住民によれば、「驚いたのは、道路のセンターライン近くに出てまで、ゴミを拾っていたこと。また、車を運転中、ゴミを見つけて一時停車。車を降りてゴミを拾い、また走るなんて姿も目撃したことがあります。」というところから、生真面目な性格が十分に窺えます。
 もっとも、そのゴミ拾いもここ数年は回数を減らしていたそうで、やはり何らかの「異変」はあったのだろうということが想像できます。
 近所の行きつけの洋食屋の関係者に聞いても、「亡くなる2日前のお昼時にも、お友達と来店されていました。ただ、いつもは陽気な方ですが、この日は元気がなく、どこかしょんぼりした様子。店員たちの間で、『今日、渡辺さんげんきがなかったね』と話題になったぐらいです。」との証言があります。

 今振り返ると「見た目がおかしかった」「裕之ちゃんとは、1月に二人でふぐを食べに行ったばかりでした…」とは、親交の深かった俳優の岡崎二郎さんです。
 「その時は何とも思わなかったんだけど、今振り返ると、何かに悩んでいたのかもしれない。まず、見た目が少しおかしかった。1~2日、剃っていないような無精髭で、髪もくしを入れていないのか乱れた感じ。寝起きでそのまま来たような印象で、男に対しても格好を気にする性格だったから、違和感を持ちました。」としています。
 会話も、明るい話題にはならなかったといい、「『コロナの影響で、イベントとか作品が少ないんですよね』と。『仕事がないんで、バーベルを持ち上げようとしても目的意識がないんですよ』とも言っていた。
 3~4年前、俺が『運動不足で、膝に来て』と言ったら、『そんなの聞きたくないです』と怒られることがあった。自宅にジムを作るくらい運動オタクだったから、もしかしたら、体作りに身が入らない自分が許せなかったのかもしれない。
 仕事はあったと報じられているけど、年齢的にはおじいさんの役が多くなるし、自分のやりたいものとのギャップもあったかもしれないね。」と明かしています。

 さる芸能関係者も、「最近は気分の波が激しくなっていたのは事実のようです。」として、こう続けています。「落ち込んだ状態になると『女房が狙われている』とごくごく親しい知人に漏らすこともあったとか。新幹線に乗っても、隣に誰かが座ると警戒し、席を立つこともあったそうです。」

 渡辺裕之さんを知る関係者がみな口をそろえるのが、真面目で完璧主義者だった、との印象です。前述の実弟・幹夫さんも、「感情も豊かで、身の周りに起こったことについて、徹底して考えるタイプでした。」それだけに、一度バランスが崩れると、深みから抜け出せなくなることもあったのではないかと想像してしまいます。
 「最後に会ったのは、1年前の2月のことでした。」と幹夫さんは続けます。「私の家に突然、ふらっと立ち寄ったんです。で、芋を食べて帰っていったんですよね。出が茨城ですから、名物の干し芋です。それで、コロナ禍で個人事務所の経営が大変だ、とか、実家をどうしようか、といった話をしましたね。」と語ります。
 渡辺裕之さんの父は既に他界し、当時、母が水戸市内の実家に一人暮らしをしていたそうですが、高齢で認知症となり、近所の施設に入所したといいます。そんな事情もあり、実家は空き家となっていたのです。
 「その後は顔を合わせることこそありませんでしたが、LINEなどではやり取りをしていましたよ。最後に連絡したのは、去年の暮かな。コロナの影響で、母が昨年1年間は面会禁止だったんです。それが暮れに解け、ようやく訪問できることになった。その関係でのやり取りでした。兄は一人で面会に行き、15分間ほど話すことができたそうです。」と語ります。
 母のことをいつも気にかけていたという渡辺裕之さん。ワイドショーなどでは、「うつ症状だった。」との指摘もなされていました。その辺りはどう感じていたのでしょうか。改めて幹夫さんに伺うと、「それが正しいのか、正しくないのか、あまりに急なことだったので、私もまだわからないことがたくさんあるんです。ただ一つ言えるのは、健康状態も良く、家庭関係も円満だった。何かに絶望してというものではありません。だから、私も原さんも、今回の事は予見できなかった。周囲に突然見切りをつけるような死に方ではなかったということです。」と述べています。

 「兄は、幼い頃から器用なタイプでした。身体能力も高いし、ドラムもうまい。あの見た目ですから、学校でもよくモテましたよ。良いところは、すべて兄が持っていきました。」と話してます。しかし、前述の通り、生き方そのものについては、むしろ不器用だったのか。逆にそれゆえの悲劇だったのかもしれないとも語ります。
 「そんな兄だけに、本当に原さんと結婚してよかったと思います。原さんはいつも落ち着いていて、奥さんというより、同志のような…。結婚は兄のカンで実ったようなものでしたが、これ以上ないパートナーでしたよ。」と述べています。

 以前、渡辺裕之さん、原日出子さん夫妻は、「徹子の部屋」で、当時結婚生活22年ながら、夫の渡辺裕之さんから、「毎日お尻を触られる」「熱いキスやハグは当たり前」などアツアツぶりを公言していた原日出子さん。
 原日出子さんの「情熱的な夫」である渡辺裕之さんに、妻とスキンシップを欠かさない理由を聞いています。「愛おしい子どもを抱きしめたいと思うのと一緒。言葉での気持ちの共有では足らなくて、ぬくもりを感じたくなるのは、生き物の本能だと思うんです。あとはやっぱり、ずっと仲良く円満な夫婦でいたいですからね。」と語っていました。

 亡くなったとされる地下室は、渡辺裕之さんの趣味が詰まった部屋だったという。「自宅を建て直したときに、地下室を自分の趣味スペースにしたそうです。そんなに広くはありませんが、トレーニング機材やドラムセットがあり、大画面テレビで映画を観ることができました。
 渡辺さんは、ここ最近、その部屋にこもっていることが多かったようです。」と渡辺裕之さんの友人は語ります。

 渡辺裕之さんの自宅は神奈川県の閑静な住宅街にあります。「3日の午後にパトカーが来て、警察官が出入りして不穏な雰囲気でした。泥棒でも入ったのかと思っていましたが、まさか渡辺さんが亡くなっていたとは…」と近所の住民は述べています。

 渡辺裕之さんと原日出子さんが結婚したのは1993年のことです。
 「原さんは1981年にNHK朝ドラ『本日も晴天なり』のヒロインでブレイク。人気絶頂の1983年に高校時代の同級生と結婚して1女をもうけるも、1987年に離婚しました。
 渡辺さんは1982年にデビューし、スポーツで鍛えた身体で肉体派俳優として活躍。『リポビタンD』のCMが有名ですね。ふたりは1990年にドラマで共演して交際が始まりました。」とテレビ誌ライターは語ります。
 原日出子さんの娘は当時10歳。子連れ再婚だったのですが、渡辺裕之さんはわが子のようにかわいがり、後に1男1女が生まれて5人家族となりました。
 2001年には「パートナー・オブ・ザ・イヤー」に選ばれました。原日出子さんは2016年に出演した「徹子の部屋」で「キスやハグは当たり前」とアツアツぶりを公言。
 渡辺裕之さんも折に触れて原日出子さんへの感謝の言葉を述べ、SNSに奥さんの手料理の写真を上げていました。映画でも夫婦役や、一緒にカレールーのCMに出演するなど共演も多数されます。

 まさに、おしどり夫婦として有名だったが、近所の人は少し違った印象を抱いていたといいます。「原さんが近所で買い物をすることはよくありましたが、いつも一人で、夫婦で一緒に歩いているところはあまり見たことがありませんでした。」と近所の住民は語ります。
 渡辺裕之さんはお子さんが小さかった頃、庭にプールを作って近所の子どもたちも呼んでくれたり、お祭りに参加して「ファイト―一発!」と叫んでくれたりと地元に溶け込んでいました。
 一方で、原日出子さんは親しい友人とワイン会を開くなどして楽しんでいたようです。
 渡辺裕之さん・原日出子さん家族は、定期的に自宅に友人を呼んでホームパーティを開いていたのですが、「朝からテントを張るなどの準備をして夜10時ごろまで行っていたのですが、その常連さんたちが知る限り、積極的に動いていたのは渡辺さんだったようですね。」と語ります。
 おしどり夫婦としてのイメージが先行しがちだが、私生活ではお互いの趣味を尊重し、それぞれで楽しんでいたようです。

 海外ロケの撮影はいつもハードでしたが、渡辺裕之さんは撮影スタッフにアイデアを出すなど、リーダーシップを発揮していました。英語も堪能で、身体もガッシリ。そんな頼りがいのある男らしい人だったから、誰にも悩んでいる姿は見せられなかったのかもしれません。
 しかし、よくよく証言を照らし合わせてみると、以前からお金に関する不安は抱えていたようです。「2005年に詐欺事件に巻き込まれ、同時に詐欺をしていた投資会社の広告塔だったと指摘されました。記者会見で事件について質問されると『定収入のない職業で、常に将来の不安があって、その不安がなくなればと思った僕がバカだった』と語っていました。」とスポーツ紙記者は述べています。

 亡くなる数日前、前出の近所の住民は異変を目撃していました。「自宅の近くで、うつろな目で道端に座り込んでいたり、立ち止まったり。今まではそんな姿を見なかったので、様子がおかしいなと思っていました。」としています。
 誰にも本心を語らず、地下室でひっそりと人生の幕を閉じた渡辺裕之さん。悲しみの声は今も絶えません。

 原日出子さんも身体と心の異変が以前よりあったそうです。
 「あれは45歳になるちょっと手前のことですね。だるくて動けないとか、やる気が起きないとか。私の更年期障害はそうした倦怠感から始まりました。
 一番酷かったのは貧血。もともと低血圧なんですけど、医者に行ったら、『あなただけチベットにいるような酸素量ですよ』って。酸欠状態だから造血剤を飲みなさいと言われました。パッと起きたり走ったりすると危ないくらいの量だよ、と。確かに道を歩いていてもすぐ息が上がるし、坂道を上ると途中で足が止まるくらいハアハアする。
 知り合いのママに『大丈夫?』と言われるほど、ウグイス色で血の気のない表情をしていたらしいです。お化粧していても下の色が透けて見えるくらい。白目も真っ青、歯茎も真っ白で。もともと私、子宮筋腫があり、それで生理が重く貧血が酷かったんです。でも、そこまで具合が悪くなったことはありませんでした。」と当時の様子について語ります。そうこうしているうちに、どんどん症状は悪化していきました。運動もしたくない。そもそも動きたくない状態だったそうです。
 「当時、子どもがまだ学校に通っていたんですが、朝ごはんを食べさせて送り出したら午後の2時くらいまでは寝ていたんですよ。寝室に内鍵をかけて寝て、そろそろ帰ってくるという時間になったら動き出していましたね。」と述べています。
 その後、鬱っぽく症状は変化していったと述べています。

 更年期障害が悪化するか否かは、夫の対応も大きな影響を与えると言います。
 「はじめは戸惑っていましたよ。家に帰ってくると、洗い物が溜まっていて私がソファーでゴロゴロしていたりする。そんなことはこれまでなかったので、夫も機嫌が悪くなったり。更年期だからと言っても、『医者行けよ』で、行ってきたら、『治ったのか』。風邪じゃなんだから。
 だんだんわかってきて家事をやってくれるようになったのはいいけど、これまでやってないからさっぱりできない。私にいちいち聞かなきゃ駄目なので、ついに『もういいです!』ってキレてしまったこともありました。」と夫婦間の変化も赤裸々に語りました。
 「これまでとても仲の良い、ベタベタした夫婦だったからかしら。余計にびっくりして、『僕のこと、もう嫌いになってしまったのかな』と、まるで愛情がなくなってしまったように感じたのでないか」と思ったそうです。
 結婚して初めて訪れた夫婦の危機。やがて治療の効果もあって症状は治まり、夫婦の仲も元通りになったと述べています。

 突然の夫の死に直面して戸惑ったり大変な思いをされたと思います。話をいろいろと総合していくと、要所要所で何かしらのサインが放たれていたことがわかります。ただ、それをその時にリアルに感じ取ることができるかと言えば、それは非常に難しいと言わざるを得ません。
 人が死に至る、自死にいたるときは、本人にもその感情はわからずコントロールできない状態なのではないでしょうか。その後になって、あの時にあれを解決しておけば、とか家族や身近な人は感じてしまい、辛い思いをすることもあると思います。
 原日出子さんの話からも辛い思いをしたことは感じますが、原日出子さんとご家族には、この辛さを乗り越えて、これから良い人生を過ごしてほしいと強く思います。

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