矢沢永吉さんの本当の国籍や名前は?-壮絶な幼少期に驚愕

 「時間よ止まれ」など大ヒット曲を持ち、カリスマ的な人気を誇る矢沢永吉さん。そんな矢沢永吉さんについて調べてみました。

 1975年に人気ロックバンド「キャロル」を解散し、その後はソロシンガーとして活動、次々にヒット曲を飛ばした日本人ロックアーティストの一人です。「永ちゃん」の愛称で親しまれています。日本人ロックアーティストで初の日本武道館でのライブも行い、日本を代表するロックシンガーです。日本武道館でのライブは昭和から平成、令和と続いてきましたが2020年はコロナが流行り連続記録が途絶えました。その後、2021年には日本武道館でのライブを復活させています。
 矢沢永吉さんのライブの象徴とも言えるのが、大きな日の丸です。日本武道館という場所とムードある楽曲の中、照明からうっすら見える「日の丸」は日本人として生きている実感と誇りを感じさてくれる素晴らしい光景です。

 そんな日本を代表するロックスターの矢沢永吉さんが生まれたのは、広島県広島市で1949年9月14日です。矢沢永吉さんの父親は当時、1945年8月の広島原爆で前妻と娘の3人を亡くされています。自転車屋を経営していて、従業員を8人ほど雇う規模だったが、戦争でお店を失ってしまったそうです。そして戦後に知り合った女性と再婚し、1949年に矢沢永吉さんを授かったそうです。広島原爆と戦争で経営していた自転車店や家族を亡くされて、お酒に逃げる、荒れた日々が続いたそうです。そんな父親に呆れた矢沢永吉さんの母親は、矢沢永吉さんが3歳の頃に矢沢永吉さんを置いて、家を出て行ってしまったそうです。幼いころに母親が蒸発し、父親に育てられたそうですが、裕福とまではいかないまでも、父親から買ってもらった自転車を周囲に自慢するなど、それなりにいい思い出はあったそうです。
 そんな父親も矢沢永吉さんが小学校低学年の頃に原爆後遺症にて死去されました。そこからは親戚の家を転々とする日々が続いたそうです。親戚の家はどこも裕福とは言えず、たらいまわしになりながら、生活保護を受けている家に引き取られることになったそうです。もちろん、矢沢永吉さんを養う余裕はなかったそうです。小学校の遠足ではリュックサックを買ってもらえず、新聞紙でリュックサックを作って持って行ったほどです。運動、スポーツは好きだったそうですが、野球などスポーツをさせてもらうこともできず、ルールを覚えることなく育ったそうです。今では普通に手に入る水泳用水着も当時は貧しく買えなかったので、裸で皮を泳いでいたそうです。
 このころの矢沢永吉さんの口癖は「つまらない」だったということです。それを聞いた祖母はよく涙ぐんでいたといいます。なにより悔しく、辛かったのは給食費などの免除だといいます。当時のことを矢沢永吉さんは、「給食をただで食べさせてもらって、教科書もただでもらったあの日の事を忘れない。生活保護の子はね、裏口からパンや牛乳を貰うんだよ。乞食じゃん、ふざけんなよって思った。絶対これ上に行かなきゃだめだと、小学校6年生で思わせてくれたんだよ。」と言います。
 小学生だった矢沢永吉さんは、子供ながら家庭の状況を理解し、他の家より貧しく悲惨だと実感していて、とても悔しい思いをしたそうです。この頃から将来は自分の子供の食費や学費は絶対に払うんだと思い、お金を稼ぐことを考えたそうです。

 そんな厳しい幼少期を過ごされてきた矢沢永吉さんですが、ネットでは前から在日などと噂されています。本名は「趙永吉 チョヨンギル」、通称は「巴山永吉」だそうですが、これは「キャロル」のメンバーのジョニー大倉さんが在日だったことや、戦後多くの韓国人が実家の地域に移住して「コリアンタウン」と呼ばれていたことなどが理由だそうです。
 矢沢永吉さんは高校生時代からバイクに乗っていて、免許証が日本国籍であることは証明されていそうです。パスポートも日本人として取得しており、「在日韓国人」の可能性は低いといえそうです。芸能人や有名人によくある「噂の一人歩き」のようです。

 1972年、矢沢永吉さんが22歳の時に銀行員だったすみ子さんと結婚されています。この頃の矢沢永吉さんはロックバンド「ヤマト」で大そうな人気で4日で女性を変えると言われるほどのモテっぷりだったそうです。激しく女遊びをしていたのでしょうか。
 そんなモテた矢沢永吉さんですが、お客さんとして来ていたすみ子さんに一目惚れしたそうです。「結婚前提で付き合ってくれ」と出会った日の夜に言ったそうです。そして、知り合ってから2カ月ですみ子さんとの同棲生活が始まりました。そこからの展開は早く、同年中にすみ子さんには仕事を辞めさせ、結婚をされたそうです。当時、今と比べれば全国的には無名の駆け出しミュージシャンだったため、挙式や結婚指輪を買うお金の余裕はなくて矢沢永吉さんのお母さんが用意したそうです。1972年10月に初めて「リブ・ヤング」に出演が決定し、衣装の用意のために結婚指輪を一時的に質屋にいれたこともあったとのことです。
 お二人の間には子供は3人いましたが、結婚から17年後に離婚しています。
 離婚後すぐに、矢沢永吉さんはアメリカ人とのクオーターであるマリアさんと結婚してアメリカに渡り、カリフォルニア州で結婚式を挙げています。離婚理由は、すみ子さんは「家に仕事を持ち込まないで」というタイプで、マリアさんは反対に愚痴や悩みを聞いてくれて尚且つ助言してくれるので、心惹かれたと矢沢永吉さんは言っています。マリアさんとの間に女の子が誕生したのをきっかけに、すみ子さんとの離婚を薦めたそうです。単純に、矢沢永吉さんの「浮気」ですね。

 マリアさんとの結婚してから、矢沢永吉さんは、元側近による巨額横領と詐欺事件で35億円の借金を抱えることになります。周りから好奇の目で見られることを避けるために、マリアさんと娘を連れてアメリカへ移住していったそうです。多額の借金に、信頼していた人からの裏切りで精神的にショックが大きく、お酒に逃げていた矢沢永吉さんに、マリアさんは「お酒はもういっぱい飲んだでしょう?大きな額だけど、あなたが本気を出せば返せない額ではない」と励ましました。これを機に矢沢永吉さんはライブやテレビ出演など、今まで以上に仕事をして頑張りました。そしてわずか6年で35億円の借金を完済しました。この時に矢沢永吉さんはマリアさんの言葉をきっかけに「主人公が追い込まれるピンチシーン」だと思うように、発想を切り替えたのだと言います。
 多額の借金の他に、元妻すみ子さんとの離婚時の慰謝料もあったそうです。元妻すみ子さんへの慰謝料は、「ポルシェ3台分」ほどの約4500万円から6000万円と言われています。
 インタビューに対して矢沢永吉さんはすみ子さんについて、「女房(すみ子さん)や子供達にずっと後悔しています。夢と健康とパワーで突っ走ていた僕を受け止めてくれたのは女房です。すごく感謝している。できれば何度も戻りたいと思った。あの頃が結婚して最高の時だったね。悲しい話だけど…。」
 今現在は、すみ子さんに慰謝料を払っただけでなく、矢沢永吉さんが経営している会社の役員に入って、すみ子さんとの間に生まれた子供たちは矢沢永吉さんのライブDVDを制作している会社にいるようです。矢沢永吉さんの気持ちはハッキリしないようですが、お互い年齢を重ねそれまでに積み上げてきたことも鑑みて当事者同士で納得しているようですので、こういう関係もあり、何でしょうね。

 今後は、落ち着いて、ゆっくりと生活に、仕事に頑張ってもらいたいと思います。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

Copy Protected by Chetan's WP-Copyprotect.