もんたよしのりさんの〝最期〟に…【追悼】

 ロックバンド「もんた&ブラザース」のボーカルで、「ダンシング・オールナイト」を大ヒットさせた、まさに一世を風靡したシンガーソングライターのもんたよしのりが、大動脈解離のため2023年10月18日に亡くなっていたことが22日に明らかになりました。享年72歳でした。通夜・告別式は、親族のみで行われたといいます。公式ブログに「ご報告」として所属事務所名義でコメントが掲載されました。「とても穏やかな顔で旅立ちました」「あんなに元気でいつもパワフルだったもんたが、天国へ向かうなんて、今も信じられない気持ちでいっぱいです」と記されました。また、長女のKomugiさんが、「大切なことを幾つも教えてもらいました」と父を偲びました。

 もんたよしのりさんは1951年1月8日広島県で生まれ、兵庫県で育ちました。寝具店の長男として生まれ、中学1年生で出会ったビートルズで音楽に目覚めました。1980年に「もんた&ブラザース」として出した「ダンシング・オールナイト」が大ヒットします。NHK「紅白歌合戦」にも出場。個性的なハスキーボイスで日本中にその歌を響かせました。1983年には大橋純子さんとのデュエット「夏女ソニア」が化粧品のキャンペーンソングになりました。同じ年に友人の西城秀樹さんに提供した「ギャランドゥ」は日本レコード大賞金賞を受賞しました。しかし、多忙を極める中で疲弊し、1984年に活動を休止しました。関西に拠点を戻し、アフリカや東南アジアを放浪するたびに出たそうです。チャリティーコンサートを数多く手がけ、阪神・淡路大震災や発展途上国への義捐金として寄付を行いました。

 もんたよしのりさんは学生時代からバンド活動を始め、「この足の鎖ひきちぎりたい」でソロデビューを果たします。一時音楽活動をあきらめるも、再び「もんた&ブラザース」でデビューし、「ダンシング・オールナイト」を発表します。この曲が大ヒットし、日本レコード大賞金賞、第11回日本歌謡大賞放送音楽特別賞、第13回全日本有線放送大賞などの賞を総なめしました。実は、音楽活動についてそんなに順風満帆に進んだわけではありませんでした。1971年に「この足の鎖ひきちぎりたい」でデビューを果たしますが、この後9年間東京で音楽活動を行いますが、ヒットに恵まれずいったん地元に帰りました。しかし、1980年にもんたよしのりさんに最後のチャンスが巡ってきました。それがあのヒット曲「ダンシング・オールナイト」です。なんとその前の2年間で、100曲を超える楽曲のストックを持つまで作曲に没頭しました。その中の一曲が「ダンシング・オールナイト」です。レコーディングの朝には願掛けのために水浴びをしてヒット祈願をして臨んでいました。この曲が200万枚を超えるヒッになってしまったために一発屋と呼ばれることもあったようですが、楽曲のたくさんのストック曲があったため「ダンシング・オールナイト」に続く楽曲もコンスタントにリリースしオリコンのベストテン内に送り込んでいます。また、作曲家としても西城秀樹さんに提供した「ギャランドゥ」が大ヒットし音楽性の高さを伺わせます。ちなみにギャランドゥという言葉自体に特に意味を持たないインチキ英語であることは本人も認めています。もんたよしのりさんの場合、自分で楽曲を生み出していくのでいつでも良い曲は作れるという自信があったのかもしれません。そこがシンガーソングライターの強みでもあります。自分で楽曲を生み出せない場合は作詞家、作曲家を探していかなければいけませんが、自分が思いつけばいつでも楽曲が生み出せるので、どんな音楽を世間に送り出そうかと考えていたのかもしれません。しかしながら音楽性が世間の流行とズレてしまうこともありますから、それだけでは怖いところもありますよね。しかし、デビューして9年も売れなかった期間に、どのような思いで生きていたのかを考えると辛いなんて安易な言葉では表すことはできないでしょう。それだけの時間を掛けて出来た「ダンシング・オールナイト」だけに爆発力はすごかったと思えます。インターネット上では1980年代に一番売れた楽曲とも言われています。今でもカラオケで歌う人もいるので、当時ヒットした数字以上に世間への浸透力があり世代を超えたヒット曲と言えます。この曲が「もんた&ブラザース」の曲であることを知らない人でも鼻歌やワンフレーズぐらいは知っている人もいると思います。

 2009年には窪塚洋介さんとレゲエにも挑戦したりと、様々なステージに立っていました。もんたよしのりさんは病気なのでは?という噂があった時期もあったようですが、どうなんでしょう。熱帯マラリヤにかかって、生死を彷徨ったことはあったようです。パプアニューギニアから帰国した時、隔離病棟で41.6度の高熱で家族に「もしもの時」と口にしていたそうです。新種の病気ではないかと心配した家族は、マラリアだとわかったときバンザイしたというのはすごいですね。日本では熱帯の国と違いマラリアの罹患者が少ないのでわかるまで時間がかかったのかもしれません。1996年8月『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』で娘のこむぎさんがもんたよしのりさんへ、前年マラリアにかかって死にかけたことについて、涙ながらに手紙を読んだこともありました。

 もんたよしのりさんは年々活舌が悪いと指摘されていたようですが、何かの病気ではなかったようです。ちなみにあのハスキーボイスは、売れない時に枕に顔を押し付けて叫ぶことによって自ら声をつぶしたといいます。もんたよしのりさんには逮捕されたという噂が出たときもあったようですが、デマだったようです。噂の原因はわかりませんが「もんた&ブラザース」が売り出し中の時に大麻で捕まるミュージシャンがいたり、海外に行くことが多かったので変な噂が流れたようです。根も葉もない単なる噂だったようです。

 もんたよしのりさんは結婚していて娘がいらっしゃるようです。1982年に婚約者として「元田恭子」さんが紹介されていますが、残念ながら奥さんとしては詳しい情報は見つかりませんでした。娘さんは「門田こむぎ」さんです。1983年生まれです。2006年に解散した音楽ユニットBuzyの前身、COLORのメンバーで1999年にデビューしますが、2002年に関西大学進学を機に脱退。大学を卒業してから現在までは社交ダンサーとして活動し、インストラクターもされているようです。テレビ番組で共演したり、もんたよしのりさんが溺愛していた様子がうかがえます。こむぎさんが中学受験に合格した時、もんたよしのりさんが出演した「THE夜もヒッパレ」で、引退した安室奈美恵さんに「こむぎちゃん、おめでとう!」と言ってもらったエピソードもあります。もんたよしのりさんとこむぎさんは、お互いのことを「むーたん」「もんちゃん」と呼び合うほど仲が良いようです。門田こむぎさんは社交ダンスのダンサーに転身していて、社交ダンスの指導に奮闘する日々を送っているようです。テレビ番組における最近のこむぎさんの姿は2004年に、「ぐるぐるナインティナイン」の岡村隆史さんとのデート企画に出演したこともありました。その時は岡村さんが「まずはお友達から!」と告白して門田こむぎさんもOKを出していましたが、父、もんたよしのりさんが「しばくぞ!」と反対してカップル成立にはなりませんでした。ベットで一緒に寝るほど仲が良い親子で、2人で街を歩いていると、親子には見られずに、門田こむぎさんがもんたよしのりさんの不倫相手に間違えられたりするそうです。幼いころ、こむぎさんが兄が欲しいと言い続けたら、「お兄ちゃんを見つけてきたぞ」とネパール人の少年を養子に決めてきたこともあるそうです。

もんたよしのりさんのこれまでの活動について調べてみました。長きにわたるご活躍に敬意を評するとともに、ご冥福をお祈りしたいと思います。

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