広島市の中心街を歩いたことのある人なら、一度は見かけたことがあるだろう。色鮮やかな服をまとい、腕にはいくつもの腕時計、荷台に猫のぬいぐるみや小物を積んだ自転車を押しながら、ゆっくりと街を歩く男性。その名を、広島太郎という。
彼は広島の“名物”とも呼ばれ、市民の間では半ば伝説のような存在だった。その彼が、2025年9月下旬、70代後半で亡くなっていたと地元紙・中国新聞が報じた。長年にわたり広島の街を歩き続けた男の最期に、多くの市民が静かに哀悼の言葉を捧げた。
■ 路上に現れた「太郎」という存在
広島太郎さん(本名非公表)は、1970年代半ばから広島市中心部で姿を見せるようになった。生年は1947年頃とされ、広島市安佐南区の出身。広島大学の政経学部を卒業後、マツダ(当時・東洋工業)に入社したという説が広く語られている。自動車設計の仕事に就き、将来を嘱望される青年だったが、ある失恋をきっかけに会社を去り、その後社会との距離を置くようになった——そんな逸話が伝わる。
それから半世紀、彼は職にも住まいにもとらわれず、広島の街を歩き続けた。季節が巡り、再開発が進み、街並みが変わっても、太郎さんの姿だけは変わらなかった。まるで「広島」という街そのものが彼を受け入れ、共に時間を刻んでいたかのようだった。
■ 鮮やかな装いと“路上の哲学”
彼の姿を見かけた人がまず驚くのは、その独特なファッションだ。頭には帽子、腕には無数の時計。自転車のハンドルや荷台には、ぬいぐるみや鏡、時計、ペットボトルなどが飾りのように取り付けられていた。それは単なる奇抜さではなく、太郎さんにとっての「生きる形」だったのかもしれない。
「彼は何かを象徴していた」と語る市民は多い。孤独、自由、異端、あるいは現代社会への静かな抵抗。どの解釈も当たっているようで、どこか違う。太郎さん自身は、そんな視線を意にも介さず、いつも穏やかに微笑みながら街を歩いていた。
彼を撮影する観光客や若者も多かったが、広島の人々にとって太郎さんは“写真映えする人物”ではなく、“街の一部”だった。誰もが存在を知っていても、無理に声をかけず、遠くから見守る。その距離感が、広島太郎という人物と市民の間に、特別な関係を築いていた。
■ 変わりゆく街と変わらぬ人
広島太郎さんが歩いたのは、主に本通り商店街や流川、薬研堀といった繁華街だった。昭和から平成、そして令和へと時代が変わるなかで、街の風景は大きく変化した。古い喫茶店は消え、デパートの屋上遊園地が姿を消し、アーケードは新しくなった。
それでも太郎さんは、いつもその中にいた。季節の花が咲き、雪が舞う日も、変わらぬ足取りで通りを歩いていた。
その姿は、街の人々にとって「変わらないもの」の象徴でもあった。SNSでは、「太郎さんを見ると、なぜか安心する」「今日も生きてるんだなと思える」といった声が数多く寄せられていた。日常の中に、静かに生きる“風景の人”がいること。それがどれほど貴重だったかを、彼の不在が教えている。
■ 最期の時、そして残されたもの
中国新聞の報道によれば、太郎さんは晩年、体調を崩し、福祉施設に入所していたという。長年の路上生活の後、穏やかに最期を迎えたとみられる。正式な発表はされていないが、関係者の証言では「最期まで静かで穏やかな人だった」と語られている。
訃報が報じられると、SNSには「ありがとう、太郎さん」「あなたも広島の歴史の一部でした」といったメッセージが相次いだ。中には、「いつかまた本通りを歩いてくる気がする」と投稿する人もいた。
太郎さんの存在は、単なる“名物人物”ではなく、人と街との関係、そして“生きること”そのものを問いかける鏡だった。貧困や孤独といった言葉では語り尽くせない、彼なりの誇りと自由があったのだろう。
■ 「広島太郎」はいまも歩いている
広島太郎という名前は、誰がつけたのか定かではない。しかし、その呼び名には、「広島」という街の記憶そのものが宿っている。彼が歩いた道、立ち止まった場所、語りかけた人たち。その一つひとつが、広島という都市の“生きた記録”になった。
人々が彼を見つめ、彼がまた街を見つめ返す。その無言の往復のなかに、都市と人との共存のかたちがあった。
太郎さんの姿はもう見えない。だが、広島の街を歩けば、どこかに彼の残り香のような気配を感じる。変わりゆく都市の片隅に、確かに“広島太郎”は生きていたのだ。
