新しい「戦前」の感覚―タモリの直感と松本清張の史観、そして石破首相の「文民統制」から考える日本の現在地―

「新しい戦前」という言葉の重み

 「いまは戦後ではなく、新しい戦前のように感じる」。
このタモリの発言は、2023年ごろからSNSやニュースで話題となり、多くの人の心に重く響いた。単なる芸能人の感想として片づけるにはあまりに鋭く、そして不気味に的確である。

 戦後日本は、長らく「平和が続く時代」として自らを定義してきた。だがタモリの言葉は、その前提を静かに崩す。「戦後」はもはや終わり、「戦前」に似た空気が漂い始めている――。
それは軍靴の音ではなく、社会の空気、経済構造、そして人々の意識の奥でひそかに変化している「時代の気配」を察知した直感であろう。

 タモリは芸能界の人間でありながら、社会の潮流に対して異様なほど感受性が高い。彼の発言は、単なる時事批評ではなく「文明の方向感覚」に近いものがある。その意味で、タモリの言葉を単独のものとしてではなく、過去に同じような感覚をもって時代を見抜いた作家・松本清張の史観と並べてみると、いま私たちが立つ場所の輪郭がくっきりと見えてくる。

松本清張が見抜いた「戦前の構造」

 松本清張は、戦後日本の推理小説作家として知られるが、彼の真骨頂はむしろ『昭和史発掘』に代表される史的ルポルタージュにある。
この大作で清張が描き出したのは、単なる戦争責任の追及ではなく、「戦争を生み出した社会構造の再現」であった。彼は当時の政治家や軍人を悪人として断罪することよりも、「なぜ社会全体が破局に向かったのか」というメカニズムを克明に探った。

 『昭和史発掘』に描かれる昭和初期の日本は、地方の疲弊、農村の貧困、政治と財閥の癒着、官僚の専横、そして国民の無力感という、まさに社会の基盤が静かに崩れていく過程である。
貧しい農家の娘が身売りし、政治家は軍部や財閥の機嫌をうかがい、庶民はただ「国家のため」と言われて沈黙する。
それは銃声の鳴る前にすでに始まっていた「戦前」であり、国家全体が知らず知らずのうちに坂を下るように破局へ向かっていく様が、淡々と記録されている。

 清張が描いた「戦前の空気」とは、暴力や戦争が顕在化する以前の“社会の鈍麻”そのものであった。
 政治家も官僚もメディアも「現実を直視しないまま制度を動かす」――その空気が戦争を生んだ、と清張は告発している。

現代日本に忍び寄る「構造的な再現」

 では現代日本はどうか。
タモリの言う「新しい戦前」とは、軍靴ではなく“経済の歪み”と“政治の鈍感さ”がもたらす時代の兆候だろう。

 今日の日本では、地方の衰退と格差の拡大が深刻化している。
都市の再開発が進む一方で、地方では人口減少と雇用喪失が進み、実質賃金は長年上がらない。
一部の大企業や官僚、政治家が豊かさを独占し、国民の多くは「現状維持」を強いられている。
それはまるで昭和初期における「都市と農村の断絶」と同じ構図ではないか。

 さらに、政治と宗教の関係、官僚の強大な裁量権、そして国民の政治的無関心。
こうした要素が積み重なり、「戦前の構造的条件」が静かに再形成されつつある。
 戦前、政治を支配したのは陸軍だったが、現代の日本で強い影響を持つのは財務官僚と中央銀行である。
 通貨発行権と財政支配という“見えない軍事力”を握る存在が、政治家を間接的にコントロールしているという指摘もある。
 もし清張が生きていれば、「現代の統帥権は金融にある」と書いたかもしれない。

「通貨戦争」という新たな戦前

 戦前の日本は、金本位制という枠組みの中で、資源と市場をめぐる植民地戦争を戦った。
だが現代は、通貨発行権と信用システムをめぐる「経済戦争」の時代である。
 米国、中国、EU、日本――それぞれが自国通貨の価値と国際的地位をめぐって、見えない戦いを繰り広げている。
 為替介入や金融緩和、金利操作は、いまや「経済版の砲撃」である。

 問題は、その戦争があまりにも複雑で、国民には見えにくいことだ。
 生活の物価上昇、税負担、年金の目減りという形で静かに進行している。
 多くの人は「戦争など起きていない」と思っているが、実際には国力を削る「通貨戦争」の最前線に立たされている。
 その意味で、タモリの言う「新しい戦前」とは、まさに経済の戦争の前夜を指しているのではないか。

石破首相の「文民統制」に潜む限界

 2025年、石破茂首相が「戦後80年に寄せて」と題した談話の中で、「文民統制の大切さ」に言及したことが話題となった。
 戦争を起こさないためには、軍事組織を政治が制御し、暴走を防がなければならない――これは戦前の教訓を踏まえた至極まっとうな主張である。
 だが同時に、多くの国民が感じたのは「違和感」だった。

 なぜなら、いま本当に統制すべき“権力”は、軍ではなく通貨と財政の支配構造にあるのではないか、という直感である。
 財務官僚や中央銀行、国際金融資本の意向が政治を左右し、通貨政策が国民生活を左右している。
それは戦前の「陸軍による政治支配」に匹敵するほどの影響力であり、しかもはるかに不可視だ。

 石破首相が「文民統制」を語るとき、その視線の先には軍事だけでなく、通貨と官僚機構を含む“統治の深層”まで踏み込む覚悟が求められる。
 だが現実には、政府も国民もまだそこまでの議論に至っていない。
 この「認識の遅れ」こそが、タモリが直感した「戦前の空気」の正体なのかもしれない。

清張とタモリの「時代感覚」

 松本清張は作家として、タモリは芸人として――ジャンルは異なるが、二人に共通するのは「時代の表層の下に流れるもの」を嗅ぎ取る感性である。
 清張は取材と記録によって、タモリは直感と笑いによって、社会の“ほころび”を感じ取る。
そして、そのほころびが「戦争」や「破局」へとつながっていく危険性を、それぞれの方法で警告している。

 清張は『昭和史発掘』で、戦争を生み出したのは「無知や狂信」ではなく「日常の惰性」であると書いた。
 タモリの発言もまた、現代人が日常の中で失いつつある“危機感”を突いている。
 この二人の感性が響き合うこと自体が、現在の日本がどれほど“静かな臨界点”に近づいているかを物語っているように思える。

「戦前」はいつも静かに始まる

 戦前という時代は、銃声とともに始まるものではない。
 言葉が鈍り、議論が減り、批判が「空気を読まない」とされる――そうした社会の変化の中で、気づけば「戦前」は始まっている。
 清張が描いた昭和初期もそうだった。
 タモリが感じる現代もそうかもしれない。

 もし現代が“経済戦争の前夜”であるならば、文民統制が守るべきはもはや「軍」ではなく「金」だ。
 つまり、国家の通貨政策を誰がコントロールしているのか、誰の利益のために動いているのかを、市民が監視できる体制こそが、新時代の「文民統制」である。

おわりに――「時代感覚」を持つということ

 松本清張が戦前を描き、タモリが現代を語り、石破首相が戦後を総括した。
 それぞれの立場は違えど、三者に共通しているのは「時代をどう感じ取るか」という問題意識だ。

 清張は記録で、タモリは感覚で、石破は制度で、それぞれ時代の危うさを照らそうとしている。
だが、最も重要なのは――それを受け取る「私たちの感受性」である。

 戦前と戦後を分ける境界線は、遠くにあるのではない。
 私たち一人ひとりの心の中で、社会の鈍感さを見過ごす瞬間に「戦前」は始まる。

 いま必要なのは、清張の観察眼と、タモリの直感と、石破首相の制度意識を重ね合わせて、
この国が「どの時代にいるのか」を正確に感じ取ることだ。

 それが――「新しい戦前」を、再び「新しい平和」へと変えるための第一歩である。

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