藤圭子さん ― 昭和の怨歌の女王、宇多田ヒカルさんの母

藤圭子(ふじ けいこ)さんは、1960年代後半から1970年代にかけて絶大な人気を博した日本の歌手です。本名は阿部純子(あべ じゅんこ)。その唯一無二の歌声と、人生の哀愁を深く表現した楽曲で、「怨歌(えんか)の女王」「演歌の歌姫」と称されました。
 彼女の最大の魅力は、ハスキーで憂いを帯びた独特の歌声にありました。まるで聴く者の心に直接語りかけるかのような歌唱は、多くの人々の共感を呼び、特に社会の底辺で生きる人々の心情を代弁すると言われました。
 いまでは、宇多田ヒカルさんの母としてのほうが有名ですが、そんな藤圭子さんを紹介したいと思います。

生まれ

藤圭子さんのデビュー前の生い立ちは、彼女の歌声や表現の深さに大きな影響を与えたと言われています。非常に貧しい環境で育ち、幼い頃から両親の巡業に同行していました。


1951年7月5日、岩手県一関市で生まれますが、両親が巡業中であったため、生まれた直後から北海道名寄市、その後旭川市へと移り住みました。
父親は浪曲歌手、母親は目が不自由な三味線奏者でした。幼い頃から両親と共に、祭りや炭鉱、寺の御堂などを旅回りする生活を送っていました。
貧しい生活のため、幼い兄弟で納豆や豆腐を売り歩き、日銭を稼ぐこともあったと言われています。

小学校5年生の時、初めて客前で、畠山みどりの「出世街道」)を歌ったところ、大反響を呼びました。
それ以降、学校が休みの日は両親の巡業に同行し、歌を披露するようになります。これにより、一家の収入も増え、小さな家を建てることができたとされています。
勉強が好きで成績も優秀だったそうですが、家計を支えるために高校進学を断念しました。

15歳の1967年2月、北海道岩見沢で行われた雪まつりの歌謡大会で急遽代役として出場し、北島三郎の「函館の女」を歌った際、居合わせた作曲家の八洲秀章(やしま ひであき)がその才能を高く評価し、両親に上京を勧めました。
中学卒業と同時に両親と共に上京。八洲の指導によるレッスンの傍ら、16歳から母親と共に錦糸町や浅草周辺で「流し」をして、日銭を稼ぎながら生計を立てていました。この時期には「三条純子」「島純子」といった芸名も使っていたようです。

作詞家の石坂まさをが彼女の歌声に魅せられ、その生い立ちや経験を歌に反映させる形で、1969年9月25日に「新宿の女」でRCAレコードよりデビューすることになります。この時、石坂は彼女の「暗さ」「つらさ」を売り出しの材料にしたと言われています。

このように、藤圭子さんのデビュー前は、貧困と旅回りの生活の中で培われた歌唱力と、その歌声に宿る独特の哀愁が、後の大ヒットへと繋がる土台となりました。

デビューから

デビュー直後の爆発的ブレイク(1969年~1970年代前半)

1969年9月25日、デビュー: 作詞家・石坂まさをが手掛けた「新宿の女」でRCAレコードからデビュー。これまでの演歌にはない、社会の暗部や女性の悲哀をリアルに歌い上げるスタイルは、当時の若者を中心に大きな衝撃を与えました。

怒涛のヒット連発

翌1970年2月にリリースされた「女のブルース」も大ヒット。
そして同年4月に発売された「圭子の夢は夜ひらく」は、藤圭子の代名詞ともいえるミリオンセラーを記録し、彼女の人気を決定づけました。この曲は、歌詞の内容がセンセーショナルで社会現象ともなりました。
これらのヒットにより、藤圭子は瞬く間に国民的歌手となり、当時のヒットチャートを席巻しました。ファーストアルバム「新宿の女」はオリコンチャートで20週連続1位、セカンドアルバム「女のブルース」も17週連続1位を記録し、合計37週連続1位という驚異的な記録を打ち立てています。

受賞歴

1970年には第1回日本歌謡大賞大賞を受賞するなど、その実力と人気は揺るぎないものとなりました。

映画出演

ヒット曲を題材とした映画にも多数出演し、女優としても活躍しました。『盛り場流し唄 新宿の女』『ずべ公番長 夢は夜ひらく』などが代表作です。

結婚と活動休止

1971年に歌手の前川清さんと結婚(翌年離婚)。人気絶頂期にもかかわらず、歌手活動を一時休止するなどの行動で世間を驚かせました。

その後の活動と晩年(1970年代後半~2013年)
活動再開と新たな模索

1970年代後半には活動を再開し、「命預けます」「京都から博多まで」などのヒット曲をリリース。しかし、デビュー時の爆発的な勢いとは異なり、新たな音楽性も模索するようになります。
1979年には一度芸能界を引退し、渡米。

復帰と「藤圭似子」

1982年にミュージシャンの宇多田照實氏と再婚し、翌年には長女・光(後の宇多田ヒカル)が誕生します。
その後、「藤圭似子(ふじ けいこ)」という名で芸能界に復帰。ドラマ『新海峡物語』で主演を務め、シングル「螢火」をリリースするなど、再び活動をスタートさせました。

晩年の活動と引退

2000年代以降は、娘である宇多田ヒカルの活躍もあり、再びメディアから注目されることもありましたが、自身の表立った歌手活動は限られていきました。
2006年には、芸能界引退を発表。その後は公の場に姿を見せることはほとんどなくなりました。

2013年の死

2013年8月22日、東京都新宿区のマンションから転落し、62歳で亡くなりました。その突然の死は、日本中に大きな衝撃を与えました。

結婚などプライベートなこと

前川清との結婚と離婚(1971年~1972年)

1971年、人気絶頂期にあった藤圭子さんは、当時同じく人気歌手であったクール・ファイブのボーカル、前川清さんとの結婚を発表し、世間を驚かせました。当時2人とも20代前半の若さで、トップアイドル同士の結婚は大きな話題となりました。
しかし、結婚生活は長くは続きませんでした。わずか1年後の1972年には離婚を発表。離婚の理由については様々に憶測が飛び交いましたが、多忙なスケジュールや互いの個性の強さが影響したとも言われています。この離婚もまた、世間に大きな衝撃を与えました。

宇多田照實との結婚と長女・光の誕生(1982年~)

1979年に一度芸能界を引退し、渡米した藤圭子さんは、そこで音楽プロデューサーの宇多田照實(うただ てるざね)さんと出会います。
1982年に宇多田照實さんと再婚。そして1983年には、長女である光(ひかる)さん、後の歌手・宇多田ヒカルが誕生しました。この家族は、音楽を通して強い絆で結ばれていました。
宇多田照實さんとは、その後も結婚と離婚を繰り返す独特な夫婦関係を続けていました。これは一般的には理解されにくい形でしたが、二人の間には深い信頼と、音楽に対する情熱の共有があったとされています。彼らは、藤圭子の晩年に至るまで、ビジネスパートナーとして、また家族として、複雑ながらも協力し合う関係を築いていました。

長女・宇多田ヒカルのデビューと活躍

藤圭子さんのプライベートを語る上で、長女である宇多田ヒカルさんの存在は不可欠です。宇多田ヒカルさんは、母親譲りの音楽的才能と、父親である宇多田照實さんのプロデュース力のもと、1998年にデビュー。瞬く間にJ-POP界のトップアーティストとなりました。
藤圭子さんは、娘の活躍を陰ながら見守り、時にアドバイスを送ることもあったと言われています。宇多田ヒカルさんの楽曲の中には、母親の影響を感じさせるような深い情念や孤独を描いたものも少なくありません。

晩年の状況

晩年の藤圭子さんは、公の場に姿を見せることはほとんどなく、その生活は謎に包まれていました。一部報道では、金銭トラブルなどが報じられることもありましたが、真相は不明な点が多いです。
2013年の突然の訃報は、彼女のミステリアスなプライベートと相まって、日本中に大きな衝撃を与えました。

最後に

藤圭子さんのプライベートは、彼女の歌声と同様に、どこか影があり、そして強い情熱を感じさせるものでした。その波乱に満ちた人生が、彼女の表現の深さに繋がっていたのかもしれません。

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