山口百恵-息子の逮捕の噂、創価学会員の噂を調べてみた

 21歳で引退した永遠のアイドルである山口百恵さん。その生い立ちは壮絶と言われ、辛い過去が存在します。過酷な人生から滲み出る哀愁のパワーで芸能界でトップを取れたのではないかと言われています。今回、その山口百恵さんの生い立ちや結婚生活について、調べてみました。

 山口百恵さんは、母子家庭で育ったと当初思われていましたが、実は愛人との間に生まれた子供だったと自ら明らかにされています。
 「私には父親はいない。私はあの人の存在を認めない。」と引退直前の1980年9月に出版した「蒼い時」の中では自身の生い立ちを告白しています。その中で父親を「あの人」と呼び、他人行儀な感じが伝わってきます。山口百恵さんの父親には別の女性がおり、山口百恵さんの母親は愛人でした。つまり、本妻がちゃんといて不倫相手だったということです。当然ながら、父親を憎んでいたと言います。
 不倫相手の父は、実母の親に「責任をもってきちんとします。」と話したそうですが結局本妻と離婚することはなかったようです。父親の名前は「久保茂」と言い、職業は医者でした。しかし、山口百恵さんの家族には甲斐性を見せなかったようで、本妻のことを「怖いおばさん」と評していました。本妻にも子供があり、おそらく医者という職業柄、それなりの暮らしをしていたのではないでしょうか。
 一方で山口百恵さんの家庭は、貧乏で生活保護を受けていた時期もあり、母親は内職をしていたそうです。それなので、実質は母子家庭と同じでしょう。父親が医者なのに貧乏というのはやるせないところです。
 山口百恵さんの父親は週末には顔を出しに来たのだそうです。しかし、経済的な支援は無かったようで、山口百恵さんは中学時代に新聞配達のアルバイトをしていました。週末にしか顔を出さない父親に山口百恵さんはどんな気持ちだったのでしょうか。子供は意外と賢いので幼いながらに父親の行動には引っ掛かっていた感情があったのではないかと思われます。
 山口百恵さんの父親は山口百恵さんが有名になると、親の名を利用して事務所から借金をしたり、親権を取り戻そうと裁判を起こしたりしたそうです。嫌気がさした山口百恵さんは、父親には多額のお金を渡すことで、身を引いてもらったそうです。
 このことに一切の後悔は無いそうです。絵に描いたような身勝手な父親に思えてしまいます。
 山口百恵さんの住んでいた横須賀市の実家の近くにはコリアタウンがあり、そこから父親は在日の韓国人ではないかとの噂が出たようです。韓国人説は引退後にも囁かれていていましたが、韓国人説は事実ではなく、父親は日本人で、その子供の山口百恵さんも日本人です。
 デビュー当初は山口百恵さんは幼い頃に両親が別れて父親はいないと答えさせられていたらしいです。その当時のプロダクションの意向は絶対であり、父親の存在を隠していたことによって、逆に韓国人説が出たのかもしれません。

 引退年の9月に刊行された「蒼い時」は、複雑な生い立ち、芸能人としての生活の裏面、恋愛や三浦友和さんとの初体験についても、赤裸々につづられており、発売から1カ月で100万部を超え、12月までに200万部を超える大ベストセラーになりました。最終的には「蒼い時」は344万部を売り上げています。

 山口百恵さんが芸能界で活躍し始め高校生になってすぐの頃、週刊誌が戸籍謄本を載せたことで、山口百恵さんは初めて自分が戸籍上「認知」であることを知ったと言います。
 現代であれば、訴訟ものですが当時の芸能界のプライバシーの無さは凄まじく、こういったことも許される雰囲気があったのでしょう。
 自叙伝を読んだファンには、生い立ちに共感するファンや自叙伝を読んで山口百恵さんを好きになる人がいる一方で、アンチを一定数生み出してしまったみたいです。父親にされたことが事実だったとしても、「実の父に対して自分だけの思いを告白しているだけ」などの厳しい意見もあったようです。

 山口百恵さんの芸能界入りは家族の為、もっと言えばお金の為ではないかと言われていますが、違うようです。
 山口百恵さんの家族は母親の山口正子さんと5歳年下の妹の淑恵さんです。母親の正子さんは1989年に51歳の若さで亡くなっています。
 苦労を共にしてきた家族で、山口百恵さんは中学1年生の時には新聞配達のアルバイトをこなしていたことは先ほども触れました。父親の助けもなく、お金に苦しんでいた生い立ちを考えれば、芸能界入りしたのは当然お金の為、家計を助けるためだとファンは考えていました。それは悪いことではありませんし、むしろ良いことです。
 この憶測を山口百恵さんは「スター誕生!」で森昌子さんに憧れたことが理由だと否定しているようです。ただ、家族を楽にさせてあげたい気持ちや母親の苦労をわかって感謝の気持ちが強かったことは事実でしょう。

山口百恵(現在:三浦百恵)さんは、1959年1月17日生まれ、神奈川県の出身です。生まれは東京都渋谷区恵比寿です。幼少期を神奈川県横浜市で過ごし、後に横須賀市へ引っ越しました。小学校2年生からデビューする中学2年生の途中まで6年間を横須賀市で過ごしました。横須賀の街が好きだそうです。

 デビューのきっかけは自ら応募した、1972年に当時萩本欽一さんが司会を務めていた「スター誕生!」にて、牧場ゆみさんの「回転木馬」を歌唱し準優勝となったことでした。ちなみにこの回で優勝したのは韓国出身のシルビア・リーという方でした。
 20社からのオファーを受け、ホリプロに所属することになりますが、ホリプロとしては本当は桜田淳子さん欲しかったのだそうです。
 「スター誕生!」の審査員だった阿久悠さんからは「歌は諦めた方がいいかも…」と言われたことで自身も崩れ、酷く傷ついたそうです。阿久悠さんは、森昌子さんや桜田淳子さんを越えることはないと思っていたそうです。しかし、その後「ひと夏の経験」を聞き、その評価は変わったようです。ところが、森昌子さん、桜田淳子さんの作詞には携わりましたが最後まで山口百恵さんの楽曲の作詞は無く、山口百恵さんの1980年の引退を迎えました。

 「スター誕生!」出身の花の中三トリオ(山口百恵さん、森昌子さん、桜田淳子さん)が有名ですが、当初は森昌子さんと石川さゆりさんのホリプロ3人娘で売り出す予定でした。ところが方向転換で石川さゆりさんは演歌へと進み、後に桜田淳子さんとの3人で花の中三トリオと呼ばれるようになりました。
 その後、1973年に14歳で「としごろ」デビューしていますがオリコンでも32位と、出だしはあまりパッとしませんでした。山口百恵さんはアイドルとしてはどことなく影があり、アイドルの雰囲気に似つかわしくない評価もあり、そんなには売れないだろうと事務所や周囲からの評価はあまり高くはなかったそうです。
 ところが、2枚目の「青い果実」で週刊オリコン9位と徐々に波に乗り始めて、5枚目の「ひと夏の経験」でレコード大賞大衆賞獲得やNHK紅白初出場を果たすなど、周囲の期待とは裏腹に一気にブレイクしていきます。
 アイドルとしてはなかなかきわどい歌詞を歌っていて、少し違う路線で売れて行きました。
 睡眠時間が毎日2,3時間でしたがちゃんと高校にも通っていたそうです。学校が終わって制服姿のまま、テレビやレッスンなどのお仕事の日々でした。

 山口百恵さんは、NHK紅白歌合戦には、1974年(第25回)から1979年(第30回)まで出場しています。しかし、意外なことに日本レコード大賞の中でも大賞は受賞していません。
 山口百恵さんも大賞を受賞すると思われていましたが、結局最後までレコード大賞は獲れませんでした。その代わりレコード大賞を受賞していたのは奇しくも阿久悠氏が作詞した楽曲たちだったのです。

 そして人気は最高潮のままにグリコのCMで初共演だった三浦友和さんと交際、引退を宣言して、表舞台からは姿を消しました。
 山口百恵さんは、現在は素晴らしい旦那様である三浦友和さんと、1981年の結婚以来、都内で生活をしています。

 結婚式は教会で行われましたが、創価学会員ではないかとも言われていました。さて、本当のところはどうなのでしょうか。
 歌手活動とは関係がないこともあり、山口百恵さんが創価学会員だったかどうかについて、公式なものや信頼のおける情報はありません。
 しかし、山口百恵さんの母親は創価学会員だったため、娘の山口百恵さんも子どものころから創価学会員だった可能性は十分にあります。
 三浦友和さんとの結婚に際し、山口百恵さんは脱会したと言われています。あるいはもともと入信していない、10代で脱会した、などとも言われています。
 お母様は創価学会を続け、お葬式も創価学会でのやり方で執り行ったそうです。つまり、ずっと学会員だったということになります。

 さて、山口百恵さんと三浦友和さんの息子が逮捕されたというデマがネット上に浮上しています。このことについていろいろと調べてみると、次のようなことがわかりました。
 実際に逮捕されたのは山口百恵さんと三浦友和さんの息子さんではなく、ご夫婦の次男である三浦貴大さんの所属事務所社長佐藤幸久さんだったことがわかりました。
 佐藤幸久さんは、俳優の浅野忠信さんの父親としても知られています。一時期浅野忠信さんの父が逮捕されたと話題になっていました。

 今なお山口百恵さんは伝説的なアイドルとして名前を聞く存在です。世間から未だに注目を集める宿命を背負っているような感もあります。
 山口百恵さんの楽曲をカバーしたアーティストは、100組を超え、それら楽曲はいまだにテレビなどで聞く機会もあります。7年という長くはない活動期間でしたがそれほどのインパクトを残した歌手、アイドルだったということでしょう。
 21歳でそれまでのキャリアを捨てて引退、結婚を決断する意志の強さ、女性としての肝が据わっている度胸などから引退してから何十年もも間、三浦友和さんと共に支え合いながら過ごしてくることができたのでしょう。
 結婚相手に三浦友和さんを選ばれたのも自分の生い立ちで家庭に悩まされたことで、自分の父親とは違う何かを三浦友和さんに感じ、将来生まれてくる子どもたちには自分のような思いはさせないという思いがあったと想像できます。
 芸能界復帰を願うファンも多いのですが、未だに実現しておりません。しかし、それだからこそ謎めいて、一層魅力が増しているのかもしれません。

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