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【追悼】名古屋の伝説・宮地佑紀生とは?スガキヤCMから「天国と地獄」のエピソードまで徹底解説

名古屋の街を歩けば、どこからか聞こえてくる「食べてみや〜ち」の歌声。東海地方のラジオ・テレビ界で半世紀にわたり「名古屋の顔」として愛されたタレント、宮地佑紀生(みやち ゆきお)さんが、2026年1月10日、77歳でその生涯を閉じました。

生粋の名古屋っ子としてコテコテの名古屋弁を武器に、お茶の間に笑いを届け続けた宮地さん。しかし、その人生は決して平坦なものではありませんでした。1億円の借金、そして番組打ち切りを招いたあの事件――。

今回は、名古屋が生んだ不世出のエンターテイナー・宮地佑紀生さんの軌跡を、数々の人間味あふれるエピソードと共に振り返ります。


1. 「サン・ローゼの宮地くん」から始まった伝説

宮地さんのキャリアのスタートは、芸能界を目指したオーディションではありませんでした。大学卒業後、名古屋市中区新栄にある実家の時計店を継ぐ傍ら、当時流行の先端を行っていた紳士服店「サン・ローゼ」に勤務していました。

転機となったのは、東海ラジオの深夜番組『ミッドナイト東海』。素人の面白い若者を出す企画に「サン・ローゼの店員」として出演したところ、そのマシンガントークと独特のキャラクターが大ウケ。そのまま1972年にパーソナリティとしてデビューすることになったのです。

当時の放送業界は標準語が絶対でしたが、宮地さんはあえて**「どえりゃあ」「まーかん」**といったコテコテの名古屋弁を連発。このスタイルが「隣の家のお兄ちゃん」のような親しみやすさを生み、瞬く間に若者たちのカリスマとなりました。

2. スガキヤCMに隠された「一杯のラーメン」の恩返し

宮地さんといえば、ラーメンチェーン「スガキヤ」のCM。名古屋人なら誰もが口ずさめる「もっと食べてみや〜ち♪」のフレーズは、彼の代名詞です。実は、彼がスガキヤのCMにこだわり続けたのには、学生時代の忘れられないエピソードがありました。

高校生の頃、なけなしのお小遣いでスガキヤのラーメンを食べていた宮地さんは、うっかり胡椒の蓋を外してしまい、スープを真っ白にしてしまいました。絶望する彼を見て、店長さんは黙って新しいラーメンを無料で作り直してくれたそうです。

この「一杯の恩義」を彼は一生忘れず、人気タレントになってからも**「スガキヤのCMだけは、ギャラに関わらず一生やり続けたい」**と語り、実際に20年以上にわたって出演を続けました。

3. 「1億円の借金」から這い上がった不屈の精神

華やかに見える宮地さんの人生ですが、40代の頃には文字通り「地獄」を経験しています。 20代の成功で築いた資産を元に事業を広げたものの、バブル崩壊などの影響で失敗。当時の金額で約1億円もの借金を抱えることになりました。

精神的に追い詰められた宮地さんは、名古屋の街を徘徊し、高いビルを見上げては「ここから飛び降りれば楽になれるか」と考えた夜もあったといいます。しかし、彼を救ったのはやはり「喋ること」でした。

1997年にスタートした東海ラジオの冠番組**『宮地佑紀生の聞いてみや〜ち』**が大ヒット。リスナーとの泥臭いやり取りや、飾らない人柄が支持され、彼はラジオの力でどん底から見事に復活を遂げたのです。

4. 松山千春との友情と「あの事件」

宮地さんの人生を語る上で避けて通れないのが、2016年の生放送中に起きた共演者への暴行事件です。この事件により、19年続いた看板番組は即座に打ち切り。長年築き上げた信頼は一瞬で崩れ去りました。

世間から猛烈なバッシングを浴び、再び表舞台から消えた宮地さん。そんな彼を支えたのが、デビュー当時からの大親友、松山千春さんでした。松山さんは自身のラジオ番組やライブで「宮地はバカなことをした。でも、あいつは俺の友人だ」と公言し、叱咤激励し続けました。

2017年の復帰イベントで、震える声で謝罪する宮地さんの隣には、変わらぬ友情で支える仲間たちの姿がありました。晩年は「ごめんなさい、ありがとう」を口癖に、YouTubeやCBCラジオを通じて、最後まで自分らしい言葉を届け続けました。

5. 名古屋が愛した「最後のローカルスター」

宮地佑紀生さんの魅力は、弱さも醜さも隠さない「人間臭さ」にありました。 亡くなる直前まで、ライバルのつボイノリオさんと冗談を交えたメールを交わしていたというエピソードは、いかにも彼らしい最期と言えるかもしれません。

「名古屋弁は、恥ずかしい言葉じゃない。温かい言葉なんだわ」

彼が守り抜いた名古屋弁のフレーズは、今も地元のファンの心の中に生き続けています。スガキヤのラーメンを食べる時、ラジオから名古屋弁が聞こえてくる時、私たちはこれからも「宮地さん」のことを思い出すことでしょう。


まとめ 宮地佑紀生さんは、単なるタレントではなく、名古屋の文化そのものでした。天国でもきっと、松山千春さんの歌を聴きながら、コテコテの名古屋弁で「サンキュー・ソー・マッチ!」と叫んでいるに違いありません。

宮地さん、どえりゃあ楽しい時間をありがとうございました。ゆっくり休んでちょうだいね。

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