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はじめに
昭和から平成にかけて、スクリーンやブラウン管の中で、ひときわ輝く宝石のような女優がいました。大原麗子。 その端正な顔立ちと、少し甘ったるいハスキーボイスは、日本中の男性を虜にし、女性たちの憧れの的でした。しかし、彼女が亡くなった後に明かされたその生涯は、華やかな表舞台とは裏腹に、家族への愛と、凄絶なまでの「女優としてのプライド」に満ちたものでした。
今回は、伝説の女優・大原麗子さんの知られざる生い立ちから、その最期までを辿ります。
1. 複雑な生い立ちと「母を救いたい」という決意
大原麗子さんは1946年、東京・文京区にある老舗和菓子店「田月堂」の長女として生まれました。お嬢様として育った彼女ですが、その家庭環境は平穏なものではありませんでした。
父親は非常に厳格で、時に激しい暴力を振るう人物だったといいます。彼女が8歳のとき、父の浮気が原因で両親は離婚。麗子さんは母親に引き取られますが、ここから彼女の「戦い」が始まりました。
苦労して自分を育ててくれる母親の背中を見て育った彼女は、子供心にこう誓います。「早く大人になって、お母さんを楽にさせてあげたい」。 彼女が後に語った「自立したい」という強い欲求、そして芸能界という実力主義の世界を選んだ背景には、この時の切実な思いがありました。
2. 六本木「野獣会」から銀幕のスターへ
高校生になった麗子さんは、当時最先端の若者が集まる社交場だった六本木のグループ「野獣会」に加わります。彼女に「遊び」の感覚はなく、そこはあくまで新しい世界への扉でした。
類まれな美貌はすぐに業界人の目に留まり、NHKのドラマ『幸福試験』でデビュー。その後、東映に入社します。 彼女にとって女優という職業は、単なる憧れではなく「母と自分を支えるための唯一の武器」でした。そのため、撮影現場での彼女は非常にストイックで、若手の頃からプロとしての意識が人一倍強かったといいます。
3. 日本中を虜にした「愛される女」の象徴
大原麗子さんのキャリアを語る上で欠かせないのが、映画『男はつらいよ』シリーズです。 第22作『噂の天使』、第34作『寅次郎真実一路』と、異例の2回にわたりマドンナ役を務めました。寅さんを優しく包み込むような、それでいてどこか影のある美しさは、シリーズ史上でも屈指の人気を誇ります。
そして、彼女の存在をお茶の間に不動のものとしたのが、サントリーレッドのCMです。
「すこし愛して、なが~く愛して」
この一言は、当時の流行語となり、彼女の代名詞となりました。和服姿で微笑む彼女の姿は、まさに日本男性が抱く理想の女性像そのものでした。
4. 難病との闘いと、二度の結婚
絶頂期の彼女を襲ったのが、難病「ギラン・バレー症候群」でした。29歳という若さで発症し、手足の自由を奪われる恐怖と闘いながら、彼女は奇跡的な復帰を果たします。
私生活では、俳優の渡瀬恒彦さん、歌手の森進一さんと二度の結婚を経験します。しかし、仕事への情熱と「一人の女性」としての幸せの間で揺れ、いずれも数年で終止符を打つことになります。特に渡瀬さんとは離婚後も深い信頼関係が続き、晩年まで精神的な支えとなっていたことは有名なエピソードです。
5. 晩年――「孤独死」ではなく「孤高の死」
2000年代に入ると、彼女の姿をテレビで見かける機会は急激に減っていきました。 難病の再発、乳がんの手術、そして最愛の母の介護。さらに、完璧主義だった彼女を追い詰めたのが、美容整形の修正失敗による容姿の変化だったと言われています。
「衰えた姿を見せたくない」「大原麗子のイメージを壊したくない」 その強いプライドが、彼女を自宅へと引きこもらせました。唯一の理解者であった実弟・政光さんや、親しい友人たちからの差し伸べられた手さえも、彼女は自ら振り払ってしまいます。
2009年8月、彼女は自宅で独り、静かに息を引き取りました。62歳でした。 世間はこれを「孤独死」と呼び、悲劇として報じました。しかし、彼女をよく知る人々はこう言います。 「彼女は孤独だったのではない。最後まで『女優・大原麗子』であることを守り抜くために、一人でいることを選んだのだ」と。
おわりに
大原麗子さんの人生は、母親への無償の愛から始まり、自分自身が作り上げた「美の象徴」を死守することで終わりました。
彼女が遺した作品やCMを今改めて見返すと、そこにあるのは単なる美貌ではありません。どんなに苦しくても凛と立ち、微笑みを絶やさなかった一人の女性の「覚悟」です。
「すこし愛して、ながーく愛して」 彼女が残したその言葉通り、大原麗子という不世出の女優は、今もなお私たちの心の中で美しく輝き続けています。