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芸能界入りへの強い意志
1969年4月20日、東京都に生まれた大沢樹生は、幼少期からテレビに映るスターたちに憧れを抱き、「自分も表現の世界に身を置きたい」という意思を持っていました。中学生の頃には、まさに自らの意思で履歴書を送付し、ジャニーズ事務所に所属。スカウトされたわけではなく「自ら門を叩いた」という点が、彼の芸能人生の出発点として印象的です。下積み時代には、ジャニーズJr.としてダンスの特訓、舞台出演、バックダンサーとしての経験を積み、アイドルデビューへの土台を築いていきました。
この“自ら進んで挑む”姿勢は後のキャリアにも通じており、特にアイドルとしての華やかな時期を経て俳優への転身を図る際にも、「アイドルのまま終わりたくない」「表現者としての自分を試したい」という明確な意志があったことが語られています。
光GENJI時代:デビューから脱退まで
1987年、7人組アイドルグループ 光GENJI の結成で正式デビューを果たした大沢は、最年長ながらセンター的存在として、ローラースケートを駆使したパフォーマンスや「パラダイス銀河」「ガラスの十代」などのヒットを通じて国民的アイドルへと昇りつめました。アイドルという枠組みで多くの青春を駆け抜ける中、彼自身は「いつか俳優として生きていきたい」という思いを抱え続けていました。

1994年、グループ在籍8年を経て脱退を決断。アイドル黄金期の最中に自らの道を選ぶという決断は、当時としてはリスクも伴ったものでした。華やかなステージの裏で、「アイドル」というレッテルにとどまりたくない、自分の可能性を広げたいという強い欲求が彼を突き動かしました。脱退直後にはオーディション落選の連続や役柄の限定という壁に直面しましたが、そこでも諦めずに俳優としての実力を磨き、少しずつ俳優活動に軸足を移していきました。
独立後の俳優としての歩みと近年の活動
脱退後、彼はアイドルとしての知名度だけに頼らず、俳優・表現者としての歩みを重ねてきました。映画やテレビドラマ、舞台出演を通じて「アイドル出身」という枠を超えるべく挑戦を続けました。代表作品としては、映画『わさお』(2011年)や『鷲と鷹』(2014年)などがあります。さらに、自身の事務所 MIKIO OFFICE を設立し、プロデュースや監督業にも着手。若手育成・自主制作という形で、表現の幅を広げています。
近年では、2025年10月には自身名義でライブ「MIKIO OSAWA LIVE 2025」開催を発表。俳優だけにとどまらず、音楽・ライブ活動も積極的に行っています。
また、2025年10月18日配信のニュースで、アイドル時代に推定2億円稼いだ一方で「マンションで大損した」「タイミング悪かった」という自身の投資失敗を打ち明けたインタビューが話題となりました。
さらに、2025年10月7日には(同じ光GENJI元メンバーの)赤坂晃と共演し、テレビ局の30周年記念イベントに登壇。「あの時代を再び」というファン心をくすぐる現象も起きています。
このように、脱アイドルから俳優・表現者・ライブパフォーマーへと形を変えながら、今も“前進中”の姿が印象的です。
結婚・家族・人生の私的側面
1996年に女優の 喜多嶋舞 と結婚。翌1997年には長男を授かりますが、2005年に離婚します。その後、2013年には長男とのDNA鑑定騒動が報じられ、2015年には法的に「親子関係なし」との判決が確定するという、人生において大きな試練を経験しました。
続いて2008年に再婚し、現在は娘とともに私生活を過ごしています。SNS上では10歳代の娘との親子2ショットがたびたび投稿され、「将来が楽しみ」「モデル体型」と反響を呼んでいます。
また、ライブ活動・プロデュース活動と並行して、家族との時間、父親としての時間も大切にしている様子がうかがえます。
総括――「光と陰」を経験してなお進む表現者

大沢樹生の人生を振り返ると、それは「自ら選び、挑み、変化し続ける」軌跡です。スカウトではなく自ら事務所に所属を願い出た少年。国民的アイドルとして頂点を極めながら、自らの新たなステージを求めて脱退を選び、俳優・プロデューサーとして再起。さらには投資失敗も率直に語り、私生活の苦悩も隠さず、今も“前へ進む男”として歩み続けています。
彼の歩みは、「アイドル」という一時代を超えて、今日も「表現者」「父親」「起業家」として続いています。そして2025年の今、ライブ活動、番組出演、トークイベント、SNSでの発信など、多角的に“魅せる”姿勢も健在です。過去の栄光に甘んじることなく、未来を見据え続けるその姿には、年齢に関係なく挑戦し続ける人間の“かっこよさ”があります。
