ボルネオ島のサバ州、サラワク州にマレーシア、クアラルンプールなど半島部から行くときにはパスポートが必要です。これは、両州がマレーシア連邦成立時に自治権を保持することを取り決めたためです。この特別な取り決めは、それぞれの州が持つ歴史的背景と、連邦成立に至る政治的交渉の産物です。マレーシアが多様な地域を統合する過程で生まれた独特な制度であり現在もその歴史的経緯を反映しています。
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サバ州とサラワク州の歴史的背景と自治権
サバ州とサラワク州は、イギリス植民地時代から独自の歴史を歩んできました。
サラワク州
19世紀半ば、イギリス人のジェームス・ブルックがスルタンから統治権を譲り受け、ブルック王朝(通称「白人王」)による独立国として約100年間統治されました。第二次世界大戦後、ブルック王朝はイギリスの直轄植民地となりました。
サバ州
19世紀末、イギリスの民間企業である北ボルネオ会社によって統治され、その後イギリスの直轄植民地となりました。
これらの州は、半島部(マラヤ連邦)とは異なる発展を遂げ、独自の文化や法律制度、行政システムを築いていました。
マレーシア連邦の成立と自治権の付与
1963年、マレーシア連邦が成立する際、イギリス直轄植民地であったシンガポール、サバ州、サラワク州と、既存のマラヤ連邦が合併しました。この合併交渉において、サバ州とサラワク州は、半島部の支配を恐れ、独自のアイデンティティと権利を守ることを強く主張しました。その結果、以下の特別な権利が認められました。
両州は、半島部からの住民を含むすべての入国者に対して独自の審査権を持つことになりました。これが、半島部から両州へ行く際にパスポートが必要な主な理由です。
独自の法律や政策を維持する権利、土地、宗教、移民、教育に関する自治権、が認められました。この土地に関する自治権で、林業や原油・ガスに関して独自の法律で管理しています。
これらの取り決めは、「マレーシア協定」として文書化され、連邦憲法に盛り込まれました。これにより、両州は連邦国家の一部でありながら、高度な自治権を持つ特別な地位を得ました。
シンガポールとブルネイの独立
マレーシア連邦の成立には、シンガポールとブルネイも深く関わっています。
シンガポール
1963年にマレーシア連邦に加盟しましたが、わずか2年後の1965年に分離独立しました。これは、連邦内のマレー系住民の優遇政策や、シンガポールの華人系住民との政治的対立が原因とされています。
ブルネイ
マレーシア連邦への加盟を検討しましたが、石油収入の分配やスルタンの地位をめぐる交渉がまとまらず、最終的に加盟を見送りました。その後、1984年にイギリスから完全に独立しました。
日本軍の支配下
第二次世界大戦中、サバ州とサラワク州は日本軍の支配下に置かれました。
1941年12月8日の太平洋戦争開戦と同時に、日本軍はマレー半島への上陸を開始しました。これとほぼ同じ時期に、ボルネオ島でも「英領ボルネオ作戦」が実施されました。
1941年12月16日: 日本軍はまずサラワク州のミリに上陸し、油田地帯を占領しました。
その後、約1か月足らずでボルネオ島全体を征服し、サラワク州とサバ州(当時の英領北ボルネオ)を含むイギリス領ボルネオは、終戦まで約3年半にわたって日本の軍政下に置かれました。
この期間、日本はボルネオ全体を一つの行政体系で支配しました。日本軍は日本語や日本の習慣を現地の住民に教える「皇民化教育」を積極的に行い、飛行場の建設や捕虜収容所の運営なども行われました。
日本の敗戦後、これらの地域は再びイギリスの統治下に戻り、戦後処理を経て、前述のような「マレーシア連邦」の成立へと向かうことになります。
このように、日本の占領はサバ州とサラワク州の歴史に大きな影響を与えましたが、両州がマレーシア連邦に加盟する際に自治権を保持した直接的な理由は、イギリス植民地時代に培われた独自の歴史と、連邦成立時の政治的交渉によるものです。日本の占領時代は、両州の歴史の一部として深く刻まれていますが、現在の自治権の直接的な原因とは異なります。