北島三郎(きたじま さぶろう)さんは、日本を代表する演歌歌手であり、俳優・作曲家としても活躍されました。彼のデビューまでの道のりは、苦労と努力の連続でした。
デビューまで
幼少期~青春時代
本名:大野 穣(おおの みのる)
生年月日:1936年10月4日
出身地:北海道上磯郡知内町(現在の北海道知内町)
北島さんは北海道の漁師の家に生まれました。幼少期から歌が好きで、地元の民謡大会に出場するなど、音楽に親しんでいました。しかし、家業の漁業を手伝う生活を送りながら、歌手になる夢を持ち続けていました。
上京と修業時代(苦労の連続)
20歳のとき、歌手を目指して上京しますが、生活は苦しく、新聞配達や工事現場の仕事をしながら歌の勉強を続けました。
流し(居酒屋や飲食店で歌を披露する仕事)をしながら歌唱力を磨きました。
作曲家の船村徹(ふなむら とおる)先生に弟子入り
船村徹さんは「王将」「風雪ながれ旅」など数々の名曲を生み出した作曲家で、北島さんの師匠です。弟子入り当初は掃除や雑用ばかりで、歌を習う時間はわずかだったといいます。しかし、北島さんはひたむきに努力し、次第に頭角を現していきました。
デビュー(1962年)
1962年:「なみだ船」でデビュー!
デビュー曲は大ヒットし、一躍人気歌手になります。その後も「函館の女」「兄弟仁義」「与作」などの大ヒット曲を次々に発表されました。
北島さんは演歌界のトップスターとなり、その後も長年にわたり活躍を続けました。
北島三郎さんは、北海道の漁師の家に生まれ、貧しいながらも歌手を夢見て上京。流しの仕事や作曲家・船村徹さんの弟子として修業を積み、1962年に「なみだ船」でデビューし、大ヒットを記録しました。その後、日本の演歌界を代表する大スターとなり、「演歌の王者」として名を馳せました。まさに努力と根性の人ですね!
ヒット曲

1960年代
「なみだ船」(1962年) デビュー曲で大ヒット!
「函館の女(はこだてのひと)」(1965年) 函館の哀愁を歌う名曲
「兄弟仁義(きょうだいじんぎ)」(1965年) 任侠映画の主題歌として大ヒット
「加賀の女(かがのひと)」(1968年) 加賀を舞台にした切ない演歌
1970年代
「歩(あゆみ)」(1970年) 力強い歌詞が印象的
「風雪ながれ旅」(1978年) 師匠・船村徹への思いを込めた名曲
「与作(よさく)」(1978年) シンプルな歌詞と力強い歌声が特徴
1980年代
「北の漁場(きたのぎょじょう)」(1986年) 漁師魂を歌った大ヒット曲
1990年代以降
「まつり」(1990年) 祭りの熱気を歌い、NHK紅白歌合戦でのパフォーマンスが有名!
「竹(たけ)」(1992年) まっすぐに生きる姿を竹に例えた力強い曲
北島三郎さんの楽曲は、日本の魂を感じさせる演歌が多く、力強い歌声とともに多くの人に愛されています。「まつり」は特に有名で、お祭りやイベントで今でもよく流れますね!
スキャンダル?
噂の背景
演歌界と任侠文化の関係
- 演歌は、かつて「任侠映画」や「やくざ映画」と密接な関係があり、北島三郎さんの「兄弟仁義」なども、そうした世界観と結びついていました。
- 昭和の時代、芸能界と暴力団の距離が近かった時期があり、多くの演歌歌手が興行に関与することがあったため、疑惑が生まれた可能性があります。
暴力団関係者のイベント出演疑惑
- 週刊誌などで「北島三郎さんが過去に暴力団関係者のイベントに出演した」と報じられたことがあります。
- しかし、これは当時の芸能界の慣習の一部であり、本人が直接関係を持っていたわけではないとする見方もあります。
2011年の「暴力団排除条例」施行後の対応
- 2011年に暴力団排除条例が全国で施行され、芸能界と暴力団の関係が厳しく問われるようになりました。
- その後、北島三郎さんが暴力団との関係を完全に断ったとも報じられています。
いずれも噂はあるが証拠はありません。
北島三郎さんに関する暴力団との直接的な関係を示す確たる証拠はなく、演歌業界の歴史的背景からくるイメージや、過去の芸能界の慣習から派生した噂の可能性が高いです。
現在では、芸能界のコンプライアンスが厳しくなっており、北島三郎さんも公式な場で暴力団との関係を否定しています。
紅白歌合戦卒業?歌手としては?
北島三郎さんは、2013年の第64回NHK紅白歌合戦への出場をもって紅白からの卒業を発表されました。その理由として、「日本で一番大きな歌の祭典に50回出していただいた。ここでいっぺん、ひと区切り。一本の線を引いてみたい」と述べられています。
その後、2018年の第69回NHK紅白歌合戦には特別枠で出演し、5年ぶりに紅白の舞台に立たれました。 しかし、それ以降は紅白への出演はされていません。
近年の活動としては、2023年6月5日のデビュー記念日にニューシングル「つむじ風」をリリースされました。この楽曲は、自身と重ねた人生の応援歌となっています。また、同日に「北島三郎記念館」をバーチャルで再現した「バーチャル北島三郎記念館」がオープンし、ファンがオンラインで彼の歩みを振り返ることができるようになりました。
さらに、2024年11月5日には東京・八王子市内で開催されたコンサート「令和・歌の祭典2024」に出演し、約1年4カ月ぶりにファンの前で歌唱されました。
北島三郎さんは現在も精力的に音楽活動を続けられており、紅白歌合戦への出演は卒業されたものの、ファンへの感謝を込めた活動を続けられています。
家族の支え
北島三郎さんは、18歳で上京し住んでいたアパートの大家の娘である雅子さんと結婚されました。結婚生活は2014年時点で55年を迎えており、2025年現在では66年となります。
雅子さんは、北島さんが歌手として成功する前から支え続け、家庭を守りながら5人の子供(1男4女)を育て上げました。また、北島音楽事務所の経営にも携わり、長年にわたり事務所の代表取締役を務めていましたが、その後、長男の誠さんに社長の座を譲っています。
北島さんは、雅子さんに対する感謝の気持ちを込めて『妻よ』『夫婦一生』『ふたり咲き』といった楽曲を制作しています。
5人のお子さん(1男4女)がいらっしゃいますが、長男の大野誠さんは、音楽家として活動し、北島三郎さんの楽曲の作詞・作曲を手掛けていましたが、2018年に亡くなられました。
次女の智子さんは、演歌歌手の北山たけしさんと2009年に結婚しました。北山さんは北島三郎さんの弟子であり、結婚前から約8年間交際していたことが報じられています。
三女の水町レイコさんは女優で、2016年2月2日に俳優の上地慶さんと結婚されました。

このように、北島三郎さんのご家族は音楽や芸能活動に深く関わっており、公私ともに支え合っていることが伺えます。
高齢となり、声量は最盛期と比較すると残念に感じることもありますが、元気な姿をいつまでも見せていただきたいものです。