「世界のサカモト」と評された音楽家の坂本龍一さんは、2020年6月にステージ4の癌を患っていることを公表し、闘病を続けていましたが、23年3月28日に満71歳で亡くなりました。今回、坂本龍一さんの闘病中に訴えていたことをできるだけ知らせたいと思い、これまでの経歴から振り返りたいと思います。
音楽家として
坂本龍一さんは、東京都に生まれ、幼少期からピアノを習い、クラシック音楽に親しみました。東京藝術大学に進学し、作曲と電子音楽を学びました。彼は西洋音楽だけでなく、日本やアジアの伝統音楽にも関心を持っており、その後の音楽スタイルに大きな影響を与えました。

1978年、高橋幸宏、細野晴臣とともに YMO(Yellow Magic Orchestra)を結成されます。テクノポップの先駆けとして、世界的な人気を博しました。代表曲には「Rydeen(ライディーン)」「Technopolis」「Behind the Mask」などがあります。YMOは1983年に散開(解散)しましたが、その後も何度か再結成しています。
YMOの活動と並行してソロ活動を開始し、映画音楽 の作曲家としても成功を収めました。初めは1983年に映画『戦場のメリークリスマス』(大島渚監督)で音楽を担当し、同名のテーマ曲が世界的なヒットとなりました。俳優としても出演(デヴィッド・ボウイ、ビートたけしと共演)されました。
1987年には、映画『ラストエンペラー』(ベルナルド・ベルトルッチ監督)で音楽を担当し、アカデミー賞 作曲賞 を受賞。
1992年に映画『シェルタリング・スカイ』(ベルナルド・ベルトルッチ監督)で音楽を担当。
1999年に映画『御法度』(大島渚監督)の音楽を担当。

2000年代以降からは、ピアノやアンビエント音楽 を中心とした作風が増え、よりシンプルで深みのある音楽を追求しはじめて、2005年にアルバム『/05』をリリースし、ピアノとエレクトロニクスの融合を探求されます。
2009年に『out of noise』を発表し、環境音を取り入れた実験的な作品を制作。
2014年に咽頭がんの診断を受け、活動を一時休止されますが、2017年に復帰し、アルバム『async』を発表されます。アンビエントや現代音楽的な要素を取り入れた作品となっています。
2020年に直腸がんを公表しながらも、精力的に音楽活動を継続し、2023年1月に最後のアルバムとなりました『12』をリリースされました。
その後、2023年3月28日享年71歳で逝去されます。
坂本龍一さんの音楽は、クラシックからエレクトロニカ、アンビエントまで幅広く、今なお多くの人々に影響を与え続けています。
社会活動として
2000年代以降からは環境問題や社会問題にも関心を持ち始め、音楽活動を通じてメッセージを発信するようになります。また、東日本大震災(2011年)の後には積極的に被災地支援を行い、反原発運動にも関わるようになりました。

①環境問題への取り組み
坂本龍一さんは、「音楽家としてだけでなく、地球に生きる一人の人間としてできることをしたい」 という考えを持ち、環境問題に強い関心を寄せていました。
「森の音楽会」プロジェクト(1990年代〜)
森の中でコンサートを開き、自然と音楽の共存をテーマにしたイベントを企画され、自然保護活動を支援するための活動資金を募ります。る。
カーボンオフセット活動(2000年代〜)
自身の音楽活動が環境に与える影響を考え、コンサートやツアーでのCO₂排出量を削減する取り組みを行います。再生可能エネルギーの利用を推奨し、「非化石燃料の利用を増やすべき」と発言されています。
②反戦・平和への発言
坂本さんは平和主義者としても知られ、戦争や軍事に関する発言を多く行いました。
2003年 イラク戦争への反対
「戦争は最も愚かな行為だ」と明言し、イラク戦争開戦に対して反対の意思を表明されます。
2015年 安保法制(戦争法)反対
日本政府が推し進めた安保法制(集団的自衛権の行使容認)に対し、反対を表明されます。「日本は戦争をしない国であるべきだ」と主張されていました。
ウクライナ侵攻への反応(2022年)
ロシアのウクライナ侵攻について、「このような暴力を許してはいけない」と批判し、世界的なアーティストと共に、戦争反対を訴える声明に賛同されています。
③脱原発運動
坂本龍一さんが特に力を入れていた社会活動のひとつが「脱原発」でした。
2011年 東日本大震災・福島第一原発事故以降、「原発は、人間がコントロールできないもの。これを使い続けるのは危険すぎる」と発言され、被災地支援を行うとともに、再生可能エネルギーの普及を推奨されています。
「NO NUKES」ライブの開催(2012年〜)
「脱原発」をテーマにした音楽フェスティバル 「NO NUKES」 を企画・開催され、佐野元春、ASIAN KUNG-FU GENERATION など、多くのミュージシャンが賛同し参加されています。
2012年の東京都知事選では、脱原発を掲げる候補を支持し、「原発に依存しない社会を作るべき」と主張されました。
2014年に がんを公表されますが、咽頭がんの治療中でも、脱原発運動を続け、「病気になったからといって、この問題を忘れるわけにはいかない」とコメントされています。
④東日本大震災後の被災地支援
2011年の東日本大震災発生後、坂本龍一さんは積極的に被災地支援を行いました。
「こどもの音楽再生基金」設立(2011年)
被災地の子どもたちに楽器を提供し、音楽教育の機会を支援するプロジェクトを立ち上げました。「Kizuna World」プロジェクト(2011年)
チャリティ・コンサートを開催し、収益を被災地に寄付されています。
南相馬市での音楽イベント
福島県南相馬市での音楽イベントに参加し、被災者との交流を続けられました。
「人は音楽で癒される。被災地にも音楽を届けたい」と発言されています。
坂本龍一の社会活動の影響
坂本龍一さんの発言と活動は、多くの人々に影響を与えました。特に 「NO NUKES」運動 は、日本の音楽業界における社会運動の代表例として語り継がれています。彼は、自身の知名度を利用して、社会問題に対する意識を高めることを目的とし、音楽を通じたメッセージを発信し続けました。
また、彼は「音楽家は音楽だけをやっていればいい」という考えを否定し、「音楽家も市民としての責任を持つべきだ」 というスタンスを取りました。これにより、同じように社会問題に関心を持つアーティストが増え、日本の音楽シーンにも影響を与えました。内外で多くのアーティストに影響を与え、ジャンルを超えた存在として今も語り継がれています。
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