昭和の時代に女優として大活躍されていた風吹ジュンさん。70代となった現在でも、演技力やチャーミングな魅力で人気があります。20代で音楽プロデューサーの川添象郎さんと結婚し、2人の子供にも目が組まれていますが、最後は壮絶な離婚劇もありました。今回、風吹ジュンさんのこれまでの経歴や私生活を中心に探っていきたいと思います。
風吹ジュンさんは、本名を「川添麗子」といい、1952年5月12日生まれ、富山県富山市八百町の出身です。身長は157cm、血液型はB型です。
ご先祖は豊臣軍の武士だったそうです。年貢に苦しむ農民の味方をしていたことから、命を落とした後には、村人が名前を刻んだ石碑を建てたそうで、現在もその石碑は残っているそうです。
風吹ジュンさんは、母親に翻弄された子供時代を過ごしたと言います。
風吹ジュンさんは京大卒の高校教師の父親と母親の間に生まれましたが、小学5年の時に両親が離婚しました。そして、中学2年のときには母親の育児放棄にあい、兄と京都に移住しています。
メインで働くお兄さんに代わり、台所に立つのは風吹ジュンさんの役割だったのですが、家計はいつも苦しく、買える食材は限られていたと言います。風吹ジュンさんは、育ち盛りの自分たちが肉を食べるにはどうしたらいいか考えた末に、価格が手ごろな挽肉を使い、見よう見まねで一生懸命ハンバーグを作ったそうです。
風吹ジュンさんとお兄さんにとって、ハンバーグが唯一のごちそうだったそうです。特に、ハンバーグと冷たいコーラの組み合わせが最高においしかったとのことです。
ちなみに風吹ジュンさんは、いつしか、料理をすることが心の拠り所になっていったそうで、縫製工場でアルバイトをして、そこで貯めたお金をはたいて、煮付け、総菜、そばなどの有名店をはしごし、繊細な味付けや出汁の魅力に目覚めたと語っています。
移住先では暮らしが貧しく崖の横にある家に住んでいたため、高校受験前には担任教師の家に仮住まいさせてもらっていたといエピソードがあります。
その後、京都市立日吉ヶ丘高等学校美術科を受験し一次試験に合格しましたが、二次試験当日に母親の再婚を知らされた風吹ジュンさんは受験を放棄してしまいました。
住み込みなどでバイトをするようになり、18歳で上京して銀座の高級クラブに勤務していたところをスカウトされ、芸能界にデビューします。
芸名の由来は、風に吹かれたように出てきたことから「風吹」、語呂の良さから「ジュン」と名付けられたそうです。
そんな風吹ジュンさんは、2018年、NHKの情報番組「土曜スタジオパーク」(6月16日放送)にゲスト出演された際、転校を繰り返していた中学2年生の時のエピソードを明かされています。
番組では、当時同級生だったという男女がVTRで出演しました。転校してきた彼女は他の生徒と一線を画していたと言います。言うなれば、 リトル・マリリン・モンローだったとのことです。
「私達とは違ってお姉さんっぽい感じだった。」「セーラー服の大きく開いた襟の間にある胸当てを、彼女だけはなぜか外して着ていたんです。だから、首の下から胸元にかけて大きく開いていて、ドキドキしました。」と、風吹ジュンさんについてコメントしていました。
すると風吹ジュンさんは、「そうそう、あれ(胸当て)邪魔だったから取っていたんですよ。よく覚えているなあ。中学2年の時だけ通っていた学校なのに。」と微笑まれているのですが、それほど、風吹ジュンさんは印象に残る美少女だったようです。
「2022年『古希』を迎えたにもかかわらず、いまだ、『夢中になる』男性ファンが後を絶たないというのですから信じられません。まさに『ミラクル・レディー』です。」このように語るのは、芸能ライターの小松立志さんです。
2022年11月13日から始まったWOWOW「連続ドラマW両刃の斧」に柴田恭兵さんの妻役で出演している風吹ジュンさんに再びブームが来ていたそうです。
「ドラマにせよCMにせよバラエティにせよ、関係者が驚くのはその若々しさ。女性としての『現役感』もあって、熟女好きの男性たちにはタマらないと思います。彼女の姿を見ただけで『フルい立ち』してしまうのではないでしょうか。」と芸能関係者は述べています。
高校進学については、前述の通りお母さんに拒否されて家出しました。京都のスナックで住み込みで働いていたこともありました。このころに「ロスト。ヴァージン」したようです。本人も「喪失は17歳」と話しています。
その後、18歳で上京し、銀座の高級クラブ「徳大寺」でホステスとして働くようになりました。「この店は、大物俳優の娘がママをしていて、ホステス全員がミニスカートという当時としては斬新なコスチュームで大繁盛しました。オーナーの関係上、『芸能人養成学校』としても名を馳せ、芸能関係者がよく来ていましたね。五十嵐じゅん(淳子=中村雅俊夫人)、安西マリアらが、ここから巣立っていきました。
風吹の源氏名は『レオ』だったと記憶しています。」と当時を知る人物は語っています。もちろん、風吹ジュンさんもこの店でスカウトされ芸能界デビューした一人でした。
1973年、初代の「ユニチカマスコットガール」に選ばれ、デビット・ハミルトン撮影によるポスター写真で大きな話題を呼びました。
1974年には、「愛がはじまる時」(ユニオンレコード)で歌手デビューします。キャッチフレーズは「噂のジュン」というものでした。「息継ぎに特徴があり、多くの歌手がモノマネをしました。」と音楽ライターは語ります。「先っちょ」が見えそうな胸元が大きく開いた薄手の白いブラウスに、デニムを太ももの部分でカットしたホットパンツスタイルで歌った風吹ジュンさん。「もう大ブレークしました。今で言うところの『セクシーアイドル』というポジションでした。ただ、その後シングルを3枚ほどリリースしましたが、下手でした。彼女も後に、『私は歌が一番下手な横綱』と述べていた。」と元レコード会社幹部は語っています。
しかし、人気は束の間で事務所移転問題で大トラブルに巻き込まれてしまいます。いわゆる「二重契約問題」で暴力団が介入。「誘拐・失踪」など、スキャンダラスな言葉が飛び交いました。
彼女は全ての仕事を失ってしまいました。そのころの心境を「嘘をついているのが嫌だった。」と話していたそうです。「デビュー時、3歳サバをよんでいた年齢詐称やホステス歴もバレてしまいましたが、彼女の中ではホッとした部分もあったようです。これからは、『素の自分』でやっていけばいいと」そのように芸能リポーターは振り返ります。
1975年のドラマ「寺内貫太郎一家2」(TBS系)に出演の際には、スタジオに暴力団風の男が乗り込み、「番組降板」を迫ったことがあったそうですが、共演の樹木希林さんらが徹底ガードしました。
そして、風吹ジュンさんが本格的に「蘇った」のが、映画「蘇る金狼」(1979年)だったそうです。「松田優作を相手に、フル露出でド迫力のベットシーンを見せてくれました。日本初と思われる『駅弁スタイル』まで披露するハードさでした。
本番撮影直前、彼女が松田に『ガチ』でお願いしたという伝説があります。」と映画ライターは語ります。
実はここにはある都市伝説が存在します。都市伝説となっている「三國連太郎さん映画の中で、生で中だしした。」というのをよく聞きますが、実はこれは松田優作さんのことを指しているのではないかと言われています。「蘇る金狼」の松田優作さんと風吹ジュンさんはほんとにやっているというまことしやかな都市伝説が長年語られてきました。しかし、真相はわかっていません。
以降は1991年の映画「無能の人」で日本アカデミー賞優秀助演女優賞など各映画賞を総ナメしてしまいました。まさにトップ女優に上り詰めたのです。どの役も力まず自然体で、ホワ~と演じているのが彼女の魅力。
近年は、朝の連続テレビ小説「半分、青い。」や大河ドラマなどに多く起用される「NHK御用達女優」となり、その名は全国区となりました。その後も「正直不動産」「今度生まれたら」など3本に出演しています。
私生活では、1981年、音楽プロデューサーで実業家の川添象郎氏と結婚し、1男1女をもうけるも、1992年に離婚してしまいます。
「夫が結婚12年目に『愛人』との間に子供をもうけてしまったのが原因。子供は風吹ジュンさんが引き取って養育しました。
現在、彼女は『4人のおばあちゃん』です。」と芸能プロ関係者は語ります。
その一方で、10年ほど前から年下の実業家と交際し今は同棲しているという噂があります。「自宅近所の定食屋さんでも、2人がけの小さなテーブル席に座って仲良く食べているところが目撃されています。彼女の方から『告白』したようで、表を歩いてときも指を絡めてラブラブウォーク。とても『アラ古希』のカップルには見えないそうです。」と芸能ライターの小松立志さんは語ります。
風吹ジュンさんは、デビューした頃から現在まで、変わらないものとして挙げられるのが、可愛らしさでしょう。現在も、可愛らしさに陰りは見えません。
可愛さがあると男性はほっておけないのも事実です。風吹ジュンさんの男性遍歴を調べてみました。風吹ジュンさんは、銀座でホステスをしている時に、スカウトされて芸能界に入っています。これだけ可愛い方ですから、若い頃も相当可愛かったことは明らかです。
芸能界デビューしたのが1973年ですから、2024年で51年の芸能生活になります。大ベテランで大女優の風吹ジュンさんですが、若い頃の男性遍歴はどうだったのでしょう。
可愛らしいだけでは、銀座のホステスは務まりませんから、かなりの海千山千の持ち主とも考えられます。芸能界デビューした風吹ジュンさんの男性遍歴や歴代彼氏と調べても、情報は全くないのが現状です。
当時はFRIDAYやFLASHなどの写真週刊誌もない時代でしたし、芸能人の私生活を暴露する週刊誌自体の数は少なかった影響もあるでしょう。これだけ若い頃も可愛らしさ満点の風吹ジュンさんですから、男性遍歴もかなりの数になるかもしれません。
風吹ジュンさんの男性遍歴を調べても、ベールに包まれているというのが実際のところです。写真週刊誌が無かった頃ですから、男性遍歴を暴露されるという時代ではなかったのかもしれません。
ただ、風吹ジュンさんは一度だけ男性遍歴を暴露されています。唯一の報道が、若い頃の風吹ジュンさんが、男性と同棲していたというものです。男性遍歴である同棲が報道されて、人気が低迷してしまいますが、そこはある程度男前気質のある風吹ジュンさんです。事務所の力もあったのでしょうが、女優としてドラマで復活を果たします。
同棲報道以降、風吹ジュンさんのガードが固くなったのか?それとも報道関係者が避けたのか?は不明ですが、風吹ジュンさんの男性遍歴やデート・お泊り・変装旅行などについての情報が全く出て来ません。いきなり出てきたのが、1982年に音楽プロデューサーの川添象郎さんとの結婚という発表で、それまで男性遍歴がらみの報道は皆無でした。
ところで、1974年9月に「風吹ジュン誘拐事件」が起きました。当時、風吹ジュンさんはアド・プロモーションという事務所と仮契約を結んでいたのですが、レコードがヒットしても月給は23万円に過ぎませんでした。これに不満を持ち、倍の給料を提示してきたガル企画という事務所に移籍してしまったそうです。
そんな折、フジテレビで収録を終えた風吹ジュンさんの前に、旧所属事務所であるアドプロのマネージャーなど3人が現れ、風吹ジュンさんの腕をつかんで連れ去ってしまったのです。彼らは風吹ジュンさんをホテルに軟禁状態にし、事務所移籍を考え直すように迫ったというのです。
風吹ジュンさんが「翌日の仕事のため衣装を取りに行かなければならない」と言い階下に降りたところ、待ち構えていた大勢の警官によって保護されることとなりました。人だかりの中には包帯を巻いたガル企画の石丸末昭社長の姿もあったそうです。
風吹ジュンさんの波乱万丈な人生を振り返ってきました。現在でもその可愛らしさで大活躍されていますが、関係者の間ではさらに話題になるのではないかと期待がかかっているらしいのですが、それはどうしてなのでしょうか?
それはズバリ「奇跡の古希フルオープン」の期待がかかっていると言います。恋愛でウエストも細くなり、往年の豊満の張りも復活したようです。是非チャレンジして欲しいと大手出版社の幹部が手ぐすね引いているそうです。
古希を迎えても、まだまだ今後に期待がかかるなんて、素晴らしい大女優であることに間違いないようです。いろいろな活躍を期待したいと思います。