高倉健さんの裏の顔?石野真子と〝肉体関係〟?

 高倉健さんと言えば、昭和を代表する映画俳優で、2013年には文化勲章も受賞されています。惜しまれつつも、2014年にお亡くなりになりました(享年83歳)。そんな高倉健さんに裏の顔があったとの噂を調べてみました。

 2014年11月に、高倉健さんが亡くなった後に、世間を賑わしたのは、それまで全く知られることのなかった「養女」の存在が明らかになったことでした。関係者の間でもごく限られた人しか知らなかった養女・小田貴月さんの存在でした。そして小田貴月さんの存在は関係者を不信感に陥らせ、様々なハレーションを引き起こしていくことになりました。親族に高倉健さんの死をしばらく伝えなかったことで、親族が密葬に参加できず、さらに遺骨は海に散骨し、親族に渡そうとしなかったそうです。遺産全てを相続し、高倉健さんが大切にしていた愛車、クルーザーなどを売却し、自宅も大改築してしまいました。

 養子縁組が成立したのが高倉健さんの死の1年半ほど前の2013年5月だったということも人々の不信感を煽りました。しかし、養女の小田貴月さんの口からは、「高倉の意志・・・」、「高倉からの宿題・・・」という言葉ばかりだったそうです。そんな小田貴月さんですが、2019年には高倉健さんとの日々を語った手記『高倉健、その愛』を刊行して、2023年にも『高倉健、最後の季節(とき)』を出版、さらに4月14日には顔出しを解禁した上で、『アナザーストーリーズ運命の分岐点』(NHK)の高倉健特集に出演されています。これを受けてある媒体は小田貴月さんに関する様々な疑問を改めて指摘しました。そしてなぜ高倉健さんが没後8年たったタイミングで素顔を出したのかという質問には、スポーツ紙記者はこう解説されています。「時間をかけて正体を明かすことで『高倉健』という名前を利用したビジネスに乗り出したように見えます。今年中には、健さんの愛した料理のレシピ本まで出版するつもりとも話しています。ただ、さすがにこれまでの2冊と同じように『健さんからの宿題』とは言えないでしょう」つまり、本格的に『高倉健ビジネス』に乗り出すのではと指摘しているのですが、この指摘は正しいように見えます。というのも、小田貴月さんが芸能事務所である生島企画室(会長、生島ヒロシ)と業務提携するという驚くべき発表があったからです。発表によれば『高倉健、最後の季節(とき)』発表を機に、文化人として活動することを決意したとのことです。声を生かすことや本を書く仕事がご所望のようだと報じられています。そのため生島ヒロシさんが新刊を持ち、小田貴月さんの隣に寄り添うという写真まで公開しています。それだけではなく、『生島ヒロシのおはよう定食一直線』(TBSラジオ)にも出演するのだというのです。これは、贔屓目に見ても高倉健さんの意志とは思えません。「死後のことは任せる」「僕のこと、よく知ってるでしょ」、高倉健さんがそう言い残したと語り、闘病中の見舞い拒否も高倉健さんの意思だったという小田貴月さん。疑わしいかもしれませんが、今となっては確認できません。さらにしたたかな小田貴月さんは、全ての財産を手に入れるさまも、高倉健さんの財産を好き勝手するさまも、そして最初に自分の存在を明かし本を出版するさまも、顔出しはNHKそしてフリーアナウンサーとして業界に長い生島ヒロシを利用するさまも、恐ろしいほどのしたたかさを持って行動しています。しかし、それは高倉健さんにも責任の一端はあるのでしょう。多くの人に愛された高倉健さんですが、小田貴月さんを養女にしたこと、そして正式に遺言を残しておかなかったこと、自分の死後の小田貴月さんの行動を予想しなかったこと、これらは人生最大の失敗だったのではないかと噂されています。小田貴月さんは高倉健さんの戸籍上、たった一人の子供となっていますので、その小田貴月さんが「高倉健さんの遺志」と言えばだれも逆らえません。これらは、高倉健さんにとっても喜ばしいことではないでしょう。

 孤高の俳優、「不器用ですから」とつぶやき、生涯硬派を貫いた高倉健さんですが、昭和の世ではあまりにも謎が多い私生活にゲイ説も流れたほどでした。しかし、今となっては、聞こえてくるのは実は女好きだったというエピソードです。公私にわたり高倉健さんと付き合いのあった芸能関係者は、次のように述べています。「健さんも普通の男と同じで、実は結構女好きでしたよ」と明かしています。「例えば、プライベートで熱海に遊びに行った時、通りがかった芸者らしき女を見て、『あれはいいなあ』と漏らしていました。また、撮影現場では、若い女の子のアシスタントが近くにいると、上機嫌で口数が多くなっていましたからね」と証言しています。この時以外でも、女性への思いは垣間見えたそうです。「ある時、『健さんはどうして銀座のクラブに行かないのですか』と聞いたことがありました。すると、『そういう店に行かないから、俺は男が好きだなんて噂されちゃうのかなあ』と笑っていました。続けて、『ホステスっていうのは店では可愛らしくしていても、外ではポルシェに乗っていたりするんだぜ』と言ったのです。仕事をバリバリこなして自立している、強気な女性が苦手だったのだと思います。」と続けています。強くて成熟した女性よりは、あどけなさの残るタイプが好みだったということなのでしょう。実はそれを裏付けるようなロマンスがあったようです。1990年代後半の一時期、ある女性タレントに入れあげていたのです。

 高倉健さんが高級寿司店を貸し切り口説いたアイドルとは誰だったのでしょう。「令和に御代替りしたから、もう時効でしょう。石野真子さんです。」と彼女の関係者が証言しています。「健さんは何度も誘い、石野さんと会食の約束をとりつけました。当時、健さんは60代半ばでもういい歳でした。彼女ははじめ乗り気ではなかったのですが、健さんがあまりに熱心なので、ほだされたようです。」と言っています。当時石野真子さんは30代半ばでした。17歳の時、アイドル歌手として『狼なんか怖くない』でデビューし、長渕剛さんや広岡瞬さんと結婚、離婚を繰り返していました。『不器用な男』がアプローチした時は独身だったといいます。ともあれ、二人は札幌すすきのにある高級寿司店で落ち合いました。店はヒノキ造りのカウンターと座敷を合わせて数十人は入れる大型店でした。先の関係者は、「さすがは大スターの健さんです。予約を取るだけでも一苦労の人気店で、粋な演出を試みました。なんと、店を丸ごと借り切っていたのです。石野さんは暖簾をくぐると客が一人もいないので、『本当に驚いた』と言っていましたね。健さんは最高の寿司を食べながら、熱い思いをぶつけ、その夜に彼女をものにしたそうです。」と当時のことを語ります。この出来事について石野真子さんの事務所は「何も申し上げることはございません。」と回答しますが、関係者は続けます。「石野さんが近しい人たちに、嬉しそうに語っていたことだから、間違いありません。今では、良き思い出になっているみたいです。」としています。『不器用な男』のはずでしたが、女性の口説き方は実に器用であったということでしょう。

 ところで、『最後のスター』と呼ばれた俳優・高倉健さんが亡くなってから、テレビやスポーツ紙などでは感動秘話が数多く語られています。寡黙で情に厚く誠実、だれにでも分け隔てなく接する人、これがきっと高倉健さんの語られれているイメージだと思います。しかし、高倉健さんにはそんな世間のイメージとは異なる顔もあったようです。インタビューでは、「自分ではわりと器用に生きているつもり」とよく答えていました。実際に、結構おしゃべりで、おちゃめな部分も多かったと言われています。例えば、1994年に当時14年振りとなるラジオに出演した時に「こんばんは、緒形拳です。」と自己紹介されています。また、高倉健さんのエッセイ集『あなたに褒められたくて』(集英社、1991年)には、高倉健さんは端役の役者に数々のいたずらを仕掛けたというが、その中身がすごいとあります。「前歯にマジックを塗ってお歯黒にする」、「脱毛クリームで眉毛を落とす」、「スプレー式の麻酔薬を吹きかける」、「馬用の下剤を飲ませて、トイレを全て占領する」、「ありったけの胡椒を入れた胡椒風呂に入らせる」といった、手の込みようと内容は相当のものばかりです。これでは、お茶目というより『健さんドS説』と言われても仕方がありませんし、今であればパワハラと訴えられても仕方がないようなものです。

 おしゃべり好きの高倉健さんは、インタビューや対談でもサービス精神は旺盛だったそうです。しかも想像するには難しいのですが、実は『下ネタ』発言も多く、1994年のラジオ出演時には、明治大学2年生の時に故郷の福岡の遊郭で童貞を捨てたことをカミングアウトしています。さらに1998年に阿川佐和子さんと対談された際に、高校時代の話の最中に、「タバコ吸ったり、マスターベーション教わったり。お寺の本堂で、十人ぐらい並んでマスターベーションするんです。」と、変わった自慰経験談を披露したこともあったようです。これには、「お寺の本堂でェ!?」と驚くしかなく、「十人もいると、気が散ったりしないんですか?」と質問したそうですが、高倉健さんの回答は、「いや、青春のときには気が散るもへちまもないですよね。」だったそうです。このような下ネタを女性の対談相手に自ら暴露しておいて、最後に高倉健さんは、「なんでこんな話になっちゃったのかな?」と一言述べるそうです。

 高倉健さんには、ゲイ疑惑もあり、1987年に映画出演がなかった時には、アメリカでエイズ死?という噂も流れたほどでした。エイズ関連株を抱えた証券マンが意識的に株価操作のために流した兜町情報だったそうです。一方女性との噂も、江利チエミさんとの離婚後には、十朱幸代さんや倍賞千恵子さんとの交際が取りざたされ、1989年には23歳年下の元CAの女優と、1992年には、21歳年下のハワイ在住日系女生徒の熱愛説も流れていました。また、2003年にも女優・児島美ゆきさんが「20年前に健さんと付き合っていた」と告白しています。今回いくつかのエピソードを調べてみましたが、ゲイではなかったようです。

 多くの人が憧れて、こうあって欲しいと想像を膨らませるような『銀幕の大スター』は、高倉健が最後ではないでしょうか。今の俳優はプライベートが何かと話題となり、今後高倉健さんのようにイメージが先行するような大スターは、残念ながら現れないような気がします。

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